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エジプト

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
エジプト・アラブ共和国
جمهوريّة مصر العربيّة
Jumhuriya Misγr al-‘Arabiya
エジプトの国旗 エジプトの国章
国旗 国章
国の標語: なし
国歌: 我が祖国
エジプトの位置
公用語 アラビア語
首都 カイロ
最大の都市 カイロ
政府
大統領 ホスニー・ムバーラク
首相 アフマド・ナズィーフ
面積
総計 1,001,450km²29位
水面積率 0.6%
人口
総計(2008年 82,999,000人(14位
人口密度 76人/km²
GDP(自国通貨表示)
合計(2008年 8,965億[1]エジプト・ポンド (£)
GDPMER
合計(2008年 1,621億[1]ドル(49位
GDPPPP
合計(2008年 4,426億[1]ドル(28位
1人あたり 5,898[1]ドル
独立
 - 日付
イギリスより
1922年2月28日
通貨 エジプト・ポンド (£)(EGP
時間帯 UTC (+2)(DST: (+3))
ISO 3166-1 EG / EGY
ccTLD .eg
国際電話番号 20

エジプト・アラブ共和国(エジプト・アラブきょうわこく)、通称エジプトは、中東アフリカ共和制国家。首都はカイロ

西にリビア、南にスーダン、北東にイスラエルがあり、地中海紅海に面している。南北に流れるナイル川河谷デルタ地帯のほかは、大部分が砂漠である。ナイル河口の東に紅海と地中海を結ぶスエズ運河がある。

目次

[編集] 国号

正式名称は、アラビア語جمهوريّة مصر العربيّةラテン文字転写(一例)は Jumhūrīya Misr al-‘Arabīya。通称は、مصرMisr)。

アラビア語の名称「ミスル」は、古代からセム語でこの地を指した名称である。なお、セム語の一派であるヘブライ語では、双数形の「ミスライム」(מצרים、現代語発音:ミツライム)となる。

公式の英語表記は Arab Republic of Egypt。通称 Egypt。形容詞はEgyptian(イジプシャン)。

日本語の表記はエジプト・アラブ共和国。通称エジプト英語を通じて日本語に入った「エジプト」の名は古代ギリシア語で「暗い」を意味するアイギュプトス (Αιγυπτος Aigyptos) に由来している[要出典]。これはメンフィスのエジプト名ヘトカアプタハ(プタハ魂の家)が訛ったものである。古代エジプト語ではケムト(黒い)と言った。漢字では、埃及と表記し、と略す。この漢字表記は、漢文がそのまま日本語中国語などに輸入されたものである。

[編集] 歴史

詳細は「古代エジプト」、「エジプトの歴史」をそれぞれ参照

「エジプトはナイルの賜物」という古代ギリシア歴史家ヘロドトスの言葉で有名なように、エジプトは豊かなナイル川デルタに支えられて世界四大文明の一つである古代エジプト文明を発展させてきた。エジプト人は紀元前3000年頃には早くも中央集権国家を形成し、ピラミッド王家の谷ヒエログリフなどを通じて世界的によく知られている高度な文明を発達させた。3000年にわたる諸王朝の盛衰の末、紀元前525年にペルシアに支配され、ペルシア帝国紀元前332年にはアレクサンドロス大王に征服された。その後ギリシア系プトレマイオス朝が成立し、ヘレニズム文化の中心のひとつとして栄えた。

プトレマイオス朝は紀元前30年に滅ぼされ、エジプトはローマ帝国属州となりアイギュプトスと呼ばれた。ローマ帝国の統治下ではキリスト教が広まり、コプト教会が生まれた。ローマ帝国の分割後は東ローマ帝国に属し、豊かな穀物生産でその繁栄を支えたが、639年イスラム帝国将軍アムル・イブン・アル=アースによって征服され、ウマイヤ朝およびアッバース朝の一部となった。

アッバース朝の支配が衰えると、そのエジプト総督から自立したトゥールーン朝イフシード朝の短い支配を経て、969年に現在のチュニジアで興ったファーティマ朝によって征服された。これ以来、アイユーブ朝マムルーク朝とエジプトを本拠地としてシリア地方まで版図に組み入れたイスラム王朝が500年以上に渡って続く。とくに250年間続いたマムルーク朝のもとで中央アジアカフカスなどアラブ世界の外からやってきたマムルーク(奴隷軍人)による支配体制が確立し、1516年にマムルーク朝を滅ぼしてエジプトを属州としたオスマン帝国のもとでもマムルーク支配は温存された。

1798年フランスナポレオン・ボナパルトによるエジプト遠征をきっかけにエジプトは近代国家形成の時代を迎える。フランス軍撤退後、混乱を収拾して権力を掌握したのはオスマン帝国が派遣したアルバニア人部隊の隊長としてエジプトにやってきた軍人ムハンマド・アリーであった。彼は実力によってエジプト総督に就任すると、マムルークを打倒して総督による中央集権化を打ち立て、経済軍事の近代化を進めて、エジプトをオスマン帝国から半ば独立させることに成功し、アルバニア系ムハンマド・アリー家による世襲政権を打ち立てた(ムハンマド・アリー朝)。

しかし、当時の世界に勢力を広げたヨーロッパ列強はエジプトの独立を認めず、また、ムハンマド・アリー朝の急速な近代化政策による社会矛盾は結局、エジプトを列強に経済的に従属させることになった。1869年にエジプトはフランスとともにスエズ運河を開通させるが、その財政負担はエジプトの経済的自立に決定的な打撃を与え、イギリスの進出を招いた。1882年アフマド・アラービーが中心となって起きた反英運動(ウラービー革命)もイギリスによって鎮圧され、エジプトはイギリスの保護国となる。

1914年には、第一次世界大戦によってイギリスがエジプトの名目上の宗主国であるオスマン帝国と開戦したため、エジプトはオスマン帝国の宗主権から切り離された。その結果、大戦後の1922年2月28日エジプト王国が成立し、翌年イギリスはその独立を認めたが、その後もイギリスの間接的な支配体制は続いた。

エジプト王国は立憲君主制をひいて議会を設置し、緩やかな近代化を目指すが、第二次世界大戦前後からパレスチナ問題の深刻化や、1948年から1949年パレスチナ戦争第一次中東戦争)でのイスラエルへの敗北、経済状況の悪化、ムスリム同胞団など政治のイスラム化(イスラム主義)を唱える社会勢力の台頭によって次第に動揺していった。この状況を受けて1952年自由将校団クーデターを起こしてムハンマド・アリー朝を打倒(エジプト革命)、1953年に最後の国王フアード2世が廃位され、共和制へと移行し、エジプト共和国が成立した。

ガマール・アブドゥン=ナーセル第二次中東戦争に勝利し、スエズ運河を国有化した。ナーセルの下でエジプトは汎アラブ主義の中心となった。

1956年、第2代大統領に就任したガマール・アブドゥン=ナーセル(ナセル)のもとでエジプトは冷戦下での中立外交と汎アラブ主義アラブ民族主義)を柱とする独自の政策を進め、第三世界アラブ諸国の雄として台頭する。同年にエジプトはスエズ運河国有化を断行し、これによって勃発した第二次中東戦争(スエズ戦争)で政治的に勝利を収めた。1958年にはシリアと連合してアラブ連合共和国を成立させ、国名をエジプト・アラブ共和国に改称している(1961年に解消)。しかし、1967年第三次中東戦争(6日戦争)は惨敗に終わり、これによってナーセルの権威は求心力を失った。

1970年に急死したナーセルの後任となったアンワル・アッ=サーダート(サダト)は、社会主義的経済政策の転換、イスラエルとの融和など、ナーセル体制の切り替えを進めた。しかし政治的自由化によってイスラム主義がかえって勢力を伸張させて体制に対する抵抗が激化し、サーダート自身も1981年イスラム過激派ジハード団によって暗殺された。かわって副大統領から大統領に昇格したホスニー・ムバーラクは、対米協調外交を進める一方、イスラム主義運動を厳しく弾圧して国内外の安定化をはかるなど、開発独裁的な政権を20年以上にわたって維持している。アルカイダを中心にしたイスラム過激派が未だ多く潜伏しており、外国人などを狙ったテロも後を絶たない。1997年にはイスラム原理主義過激派の「イスラム集団」が外国人観光客を襲撃し日本人観光客ら多数が死傷したルクソール事件なども起きている。

2009年に世界的大流行した新型インフルエンザで豚から感染すると伝えられると、国内にいる豚全ての殺処分および輸入が禁じられた。エジプトでは政府ではなく主にキリスト教徒らが中心となって民間企業などが豚の餌として生ゴミの収集を無償で行っていた。しかし豚が殺処分され生ゴミの収集を行わなくなったため、カイロなどの都市部で生ゴミが多く放置される結果となり深刻な衛生問題を抱えることになってしまった。

[編集] 政治

国家元首の大統領は、立法・行政・司法の三権において大きな権限を有する。また国軍の最高司令官でもある。大統領の選出は、議会が候補者を指名し、国民が信任投票を行う。任期は6年で、再選も可であるが、第2代ナーセル大統領以来、事実上の終身制が慣例となっていおり、ムバラク大統領は1981年以来、独裁的に大統領の座についている。2011年9月には大統領選が予定されている。

議会は、一院制人民議会(マジリス)。全454議席で、444議席は民選、10議席は大統領指名枠。任期5年。これとは別に、諮問機関としての諮問議会(シューラ)がある。全264議席で、176議席が民選、88議席が大統領指名枠。

政党については、エジプトの政党を参照。エジプトでは宗教政党が禁止されているためムスリム同胞団(事実上の最大野党)などは非合法化されている。

[編集] 軍事

詳細は「エジプト軍」を参照

[編集] 地方行政区画

詳細は「エジプトの県」を参照

エジプトの最上級の地方行政単位は、29あるムハーファザ(muhāfaza, と訳されることもある)である。知事は、中央政府から派遣される官選知事で、内務省の管轄下において、中央集権体制をとる。極端な行政区分でナイル川流域やナイル下流は非常に細分化されているにもかかわらず、南部は非常に大まかに分けられている。

[編集] 主要都市

[編集] 地理

アフリカ北東隅に位置し、国土の90%は砂漠で、ナイル川の西側にはサハラ砂漠の一部である西部砂漠(リビア砂漠)、東側には紅海スエズ湾に接する東部砂漠(シャルキーヤ砂漠)がある。西部砂漠には海抜0m以下という地域が多く、面積1万8000km²の広さをもつカッターラ低地は海面より133mも低く、アフリカ大陸で最も低い地点とされている。シナイ半島の北部は砂漠、南部は山地になっており、エジプト最高峰のカテリーナ山 (2637m) や、旧約聖書モーセ十戒をさずかったといわれるシナイ山がある。

ナイル川は南隣のスーダン白ナイル川青ナイル川が合流し、エジプト国内を南北1545kmにもわたって北上し、河口で広大なデルタを形成して地中海にそそぐ。カイロ近辺で典型的な扇状三角州となるナイル・デルタは、地中海にむかって約250kmも広がっている。かつてはナイル川によって運ばれる土で、デルタ地域は国内で最も肥沃な土地だったが、アスワン・ハイ・ダムによってナイル川の水量が減少したため、地中海から逆に塩水が入りこむようになった。ナイル河谷は、古くから下エジプト上エジプトという、カイロを境にした2つの地域に分けられている。前者はデルタ地域をさし、後者はカイロから上流の谷をさしている。

[編集] 気候

砂漠気候で住民はナイル河谷およびデルタ地帯スエズ運河付近に集中し、国土の大半はサハラ砂漠。夏の気候は40℃を超え、降雨はわずかに地中海岸にある。

[編集] 経済

ナイル川カイロ市街。カイロはアフリカ中東いずれにおいても最大の都市である。

スエズ運河収入と観光収入に依存するところが大きく、政情に左右されやすい。また近年代表的な農業製品である綿製品は価格競争において後塵を拝している。1970年代に農業の機械化及び各種生産業における機械への転換により、労働力の過剰供給が見受けられるようになり、都市部に流出し、治安・衛生の悪化及び社会政策費の増大を招くも、80年代には、石油産業従事者の増大に伴い、農業において労働力不足が顕著となる。この為綿花及び綿製品の価格上昇を招き、国際競争力を失った。1990年代から、IMFの支援を受け経済成長率5%を達成するがまた、社会福祉政策の低所得者向け補助の増大及び失業率10%前後と支出の増大に加え、資源に乏しく食料も輸入に頼るため、2004年には物価上昇率10%に達するなどの構造的問題を抱えている。現状、中小企業育成による国際競争力の強化、雇用創生に取り組んでいるも結果が出ていない。2004年のナズィーフ内閣が成立後は、国営企業の民営化及び税制改革に取り組んでいる。2008年、世界的な食料高騰によるデモが発生。

[編集] 国民

[編集] 民族

住民はイスラム教徒キリスト教徒コプト教会東方正教会など)からなるアラブ人が主であり、その他にベドウィン(遊牧民)やベルベル人ヌビア人アルメニア人ローマ人トルコ人ギリシア人などがいる。遺伝的に見ればエジプト住民の殆どが古代エジプト人の直系であり、エジプト民族との呼称でも呼ばれる由縁である。また、エジプト人の大半は、イスラム勢力のエジプト征服と続くイスラム系国家の統治の間に言語学的にアラブ化し、本来のエジプト語を捨てた人々であるとする見解があるが、長いイスラーム統治時代の人的交流と都市としての重要性から、多くのアラブ人が流入、定住していったのも事実である。1258年にアッバース朝が崩壊した際、カリフ周辺を含む多くの人々がエジプト(主にカイロ近郊)へ移住したという史実は、中東地域一体における交流が盛んであったことを示す一例である。

[編集] 言語

現在のエジプトではアラビア語公用語である。これは、イスラムの征服当時に齎されたもので、エジプトのイスラム化と同時に普及していった。ただし、公用語となっているのは正則アラビア語(フスハー)だが、実際に用いられているのはアラビア語エジプト方言である。

本来のエジプト語(厳密にはコプト語)を喋れる国民は極めて少なく、少数のキリスト教徒が典礼言語として使用するほかはエジプトの歴史に興味を持つ知識層が学んでいるだけであり、日常言語としてエジプト語(コプト語)を使用する母語話者は数十名程度である[2]。他には地域的にヌビア語教育/ビジネス英語文化においてはフランス語も使われている。

[編集] 宗教

宗教構成(エジプト)
イスラム教
  
85%
キリスト教その他
  
15%

宗教はイスラム教が90%(ほとんどがスンナ派)であり、憲法では国教に指定されている(が、既述の通り、現在では宗教政党の活動ならびにイスラム主義活動は禁止されている)[3]。その他の宗派では、エジプト土着のキリスト教会であるコプト教会の信徒が9%、その他のキリスト教徒が1%となる[3]

[編集] 教育

2005年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は71.4%(男性:83%、女性:59.4%)である[3]。2006年にはGDPの4.2%が教育に支出された[3]

主な高等教育機関としては、アル=アズハル大学(988)、カイロ大学(1908)などが存在する。

国立図書館として新アレクサンドリア図書館が存在する。

[編集] 文化

[編集] 文学

古代エジプトにおいてはパピルスヒエログリフで創作がなされ、『死者の書』などの作品が現代にも残っている。7世紀にアラブ化した後もエジプトはアラビア文学の一つの中心地となった。現代の作家であるナギーブ・マフフーズは1988年にノーベル文学賞を受賞している。

[編集] 世界遺産

エジプト国内には、ユネスコ世界遺産リストに登録された文化遺産が6件、自然遺産が1件登録されている。詳細はエジプトの世界遺産を参照。

古代都市テーベとその墓地遺跡 - (1979年、文化遺産)  
アブ・シンベルからフィラエまでのヌビア遺跡群 - (1979年、文化遺産)  
カイロ歴史地区 - (1979年、文化遺産)  
アブ・メナ - (1979年、文化遺産)  
* 聖カトリ-ナ修道院地域 - (2002年、文化遺産)  
ワディ・アル・ヒタン - (2005年、自然遺産)  

[編集] 祝祭日

8月8日は、母の日である。

[編集] 古代エジプトを舞台とした漫画

[編集] 参考文献

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[編集] 脚註

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  1. ^ a b c d IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1]
  2. ^ The Dairy Star of Egypt 2007年1月23日
  3. ^ a b c d CIA World Factbook "Egypt" 2010年1月31日閲覧。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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