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キュビスム

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

フアン・グリス『ピカソの肖像』(1912,油彩)
プラハのキュビズム建築

キュビスム: Cubisme; : Cubismキュビズムキュービズム」)は、20世紀初頭にパブロ・ピカソジョルジュ・ブラックによって創始され、多くの追随者を生んだ現代美術の大きな動向である。それまでの具象絵画が一つの視点に基づいて描かれていたのに対し、いろいろな角度から見た物の形を一つの画面に収め、ルネサンス以来の一点透視図法を否定した。

目次

[編集] 歴史

キュビスムの出発点は、ピカソが1907年秋に描き上げた『アビニヨンの娘たち』(Les demoiselles d’Avignon)である。この絵をピカソはごく一部の友人にだけ見せたが、反応は芳しいものではなかった。アンリ・マティスは腹を立て、ブラックは「三度の食事が麻クズとパラフィン製になると言われたようものだ」と言い、アンドレ・ドランはピカソがそのうち首を吊るのではないかと心配したという。

しかしブラックはピカソの仕事の重要性にすぐに気づき、ひそかに『大きな裸婦』(1908年)を描いてそのあとを追った。そしてポール・セザンヌゆかりのエスタック地方に旅し、『エスタックの家』をはじめとする7点の「セザンヌ的キュビスム」の風景画を描き、1908年秋にダニエル=ヘンリー・カーンワイラーの画廊で公開した。これを見た批評家のルイ・ヴォークセルが『ジル・ブラス』紙上で「ブラックは一切を立方体(キューブ)に還元する」と書いた。これがキュビスムの名の起こりと言われている。もっともこの言葉は、サロン・ドートンヌの審査の席でマティスが先に使っている(ブラックはこの展覧会に7点の作品を持ち込んだが5点の展示を拒否され、これを不服として全作品を引き上げている)。「キュビスト」という言葉は1909年の『フィガロ』誌が初出である。

翌1909年からピカソとブラックは共同でキュビスム追究を始めた。1911年ごろの作品はどちらに帰属するのか判別しがたいほどよく似ている。このころ、ふたりはほとんど作品を公開していない。ピカソとブラックの共同作業は、ブラックが第一次世界大戦でフランス陸軍に召集される1914年まで続いた。

キュビスムがはじめて世に知られることになった契機は、1911年の第27回アンデパンダン展である。ピカソとブラックの仕事に影響を受けたピュトー・グループの画家たちが会場の一室を占拠し、キュビスムの一大デモンストレーションを行った。観衆はそれらの「醜い作品」を見て衝撃を受け、口々に非難を浴びせた。この事件は、詩人で批評家のギョーム・アポリネールアンドレ・サルモンロジェ・アラールが意図的に仕掛けたもので、その呼びかけに応じて参加した画家はアンリ・ル・フォーコニエフェルナン・レジェロベール・ドローネージャン・メッツァンジェアルベール・グレーズマリー・ローランサンマルセル・デュシャンロジェ・ド・ラ・フレネーフランティセック・クプカフランシス・ピカビア、そして彫刻家のアルキペンコらである。彼らはこれに続き、サロン・ドートンヌ、翌1912年の第28回アンデパンダン展、ボエティー画廊における「セクション・ドール(黄金分割)」展と波状的に示威活動を行った。この年、フランス下院で「キュビスム非難演説」が行われた。

ピュトー・グループの活動は短く、才能に恵まれた何人かの画家はすぐに別の道を歩み始めた。ドローネー、ピカビアは抽象絵画、マルセル・デュシャンは『自転車の車輪』などのレディ・メイドダダイスムの先駆者となる。

シャルル・エドゥアール・ジャンヌレとアメデエ・オザンファンによる『キュビスム以降』 (Après le Cubisme) は、1918年に刊行されている。

[編集] 概要

  1. ルネサンス以来の「単一焦点による遠近法」の放棄(すなわち、複数の視点による対象の把握と画面上の再構成)
  2. 形態上の極端な解体・単純化・抽象化

を主な特徴とする。 フォーヴィスムが色彩の革命であるのに対して、キュビスムは形態の革命である、という言い方をされることもある。

キュビスムの美術の分野における影響は大きく、絵画にとどまらず、彫刻デザイン建築写真にまでその影響は及んでいる。特に、未来派ロシア構成主義抽象絵画への影響は大きい。また、パピエ・コレ (papier collé) は、のちのコラージュ (collage)、アッサンブラージュ (assemblage) へとつながっていく。

理論的な難解さの一方で、視覚的には新奇で人目をひくため、多くの画家の好みに合致したところがあり、キュビスムはかなりの追随者を生んだ。

なお、キュビスムの経験はピカソ自身にとっても大きく、「キュビスムの時代」を終えたあともしばしばピカソの作品の中にキュビスム的なイメージが現れている。

ピカソもブラックも、キュビスムから抽象に向かうことはなく、具象にとどまった。

フランス語ではキュビスム (cubisme) と、「ス」が澄んだ発音であるが、英語ではキュビズム(キュービズム) (cubism) と、「ズ」と濁った発音になる。 日本語では、「立体派」と訳され、現在でも一部の文献(例えば、高校の世界史の教科書など)ではこの訳が用いられている。しかし、正確に訳すのであれば、「立方体派」とすべきであり、このことから「立体派」という呼び方は誤解を生むので避けるべきであるという意見がある。

[編集] 主な作家

[編集] フランス

[編集] 日本

[編集] 時代区分

以下の時代区分は、ピカソとブラックのキュビスムについてであり、その他の作家たちについては必ずしもあてはまらない。

『アヴィニョンの娘たち』以降、ピカソとブラックの作品は、人物、静物、風景のいかんに関わらず、立方体のような単純な形に還元されてゆく。ちなみにこの時期を次の「分析的キュビスム」に含める考え方もある。
1909年夏頃以降、対象の分析・解体が進み、作品は平面に近づく。何が描かれているか判別がつきにくいという意味では、最も難解な時期といえる。代表作としては、「ウーデの肖像」(1910年)、「カーンワイラーの肖像」(1910年)(いずれもピカソ)がある。
1912年春頃以降、形態の分析・解体が一段落し、揺り戻しが始まる。この時期の特徴として挙げられるのはパピエ・コレ、文字の導入、シェイプト・キャンバス、色彩の復活である。
1914年頃、ピカソの作品に緑色を基調とした装飾性に富む作品が現れる。その優雅な装飾性から、ロココ的キュビスムと呼ばれる。この時期の代表作として「若い娘の肖像」(1914年)がある。

[編集] キュビスムと写真

キュビスムは写真に対しても大きな影響を与えているが、未来派ダダシュルレアリスムのように、キュビストそのものが、キュビスム的な写真作品を残しているということはまずない。たとえば、ピカソが、写真作品を多く制作しているのは有名だが、キュビスムの写真作品と呼べるようなものではない。

一般に、「キュビスムの写真」と呼ばれるような作品は、キュビスムの影響を受けた作品のことで、人物、風景(自然のもの、人工的なものを問わず)等を撮影していながら、光と影の対比、幾何学的な形態(まる、三角、四角、水平線、垂直線、対角線など)の重視、対称の構成的な配置等に、強い特徴をもった作品であり、構成主義的な写真へと直結するような位置にある。キュビスムの写真への影響は、むしろ、ストレートフォトグラフィにおいて、顕著だといわれることが多いようであるが、実際にはそれにとどまらず、ピクトリアリスム、未来派、ダダ、シュルレアリスムそれぞれの写真作品にもその跡は見て取ることができ、いわゆる「バウハウスの写真」にも大きな影響を与えている。

この範疇に含まれる具体的な写真家としては、ヨーロッパでは、アンドレ・ケルテスアレクサンドル・ロトチェンコフランティセック・ドルティコルなど、アメリカでは、ベレニス・アボットイモージン・カニンガムエドワード・ウェストンポール・アウターブリッジ・ジュニアポール・ストランドなど、日本では淵上白陽を中心としたいわゆる「構成派」の写真家たち(松尾才五郎、高田皆義、津坂淳、西亀久二など)が挙げられる。特に日本では、静物でも人物像でも、単なる影響にとどまらず、「キュビスムそのもの」というような作品すらあり、また、黒と白の効果的な使い方も顕著に見られる。

[編集] 関連分野

1910年代前半のレジェのキュビスムの作品を、チュビスムと呼ぶことがある。特に人物画において、チューブ状の物体に解体された作品が多く、この呼び名の由来となっている。
キュビスムの影響を受けて、1913年に、パリにおいて、スタントン・マクドナルド=ライト(Stanton MacDonald-Wright; 1890年 - 1973年)とモーガン・ラッセル(Morgan Russel; 1886年 - 1953年)の2人のアメリカ人により主張された絵画形式。基本的にはキュビスムの影響により抽象性が増した作品だが、色彩豊かな作品で、オルフィスムに近い。抽象性が徹底している作品ばかりではなく、再現的な作品もあり、その点でも、オルフィスムに近い。短命であり、1918年ごろには、ほとんど具象作品に回帰した。やはりパリにいた、パトリック・ヘンリー・ブルース(Patric Henry Bruce; 1880年 - 1937年)とアーサー・バーデット・フロスト(Arthur Burdett Frost; 1851年 - 1928年)の2人のアメリカ人の同時期の作品を含めて考える場合もある。また、シンクロミズム自体を、オルフィスムに含めてしまう考え方もある。

[編集] 参考文献

[編集] 関連項目

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