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フィレンツェ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

フィレンツェ
Firenze
フィレンツェの風景
フィレンツェ の紋章
イタリアの旗 イタリア
Flag of Tuscany.svg トスカーナ
Provincia di Firenze-Stemma.png フィレンツェ
測地系 北緯43度47分0秒 東経11度15分0秒
標高 海抜 50 m
面積 102 km²
人口 366,488 2006年02月28日 
人口密度 3,593 人/km²
分離集落 Galluzzo, Settignano, Le Piagge, Gavinana, Isolotto, Trespiano, Legnaia, Ponte a Greve, Rovezzano, Novoli, Careggi, Peretola, Sollicciano, Rifredi, San Frediano, Oltrarno
隣接コムーネ バーニョ・ア・リーポリカンピ・ビゼンツィオフィエーゾレインプルネータスカンディッチセスト・フィオレンティーノ
CAP(郵便番号) 50100
市外局番 055
ISTATコード 048017
IDコード D612
住民の呼称 fiorentini
守護聖人 洗礼者聖ジョヴァンニ
San Giovanni Battista
祝祭日 6月24日
Comune
Posizione del comune nell'Italia
公式サイト

フィレンツェ(Firenze)はイタリアトスカーナ州フィレンツェ県に属する人口36万人の都市である。トスカーナ州の州都、フィレンツェ県の県庁所在地であり、近郊の人口は約20万人。1986年の欧州文化首都に選ばれていた。

目次

[編集] 語源

古代ローマ時代、花の女神フローラの町としてフロレンティア(Florentia)と名付けた事が語源とされている。周辺国では、フィレンツェのことを Florence(フローレンス、英語。フロランス、フランス語)、Florenz(フロレンツ、ドイツ語)、Florencia(フロレンシア、スペイン語)と呼ぶことにもその名残が見られる。

[編集] 歴史

フィレンツェは古代にエトルリア人によって町として建設され、ローマ殖民都市がおかれた。中世には一時神聖ローマ帝国皇帝が支配したが、次第に中小貴族や商人からなる支配体制が発展し、12世紀には自治都市となった。フィレンツェは近郊フィエーゾレを獲得し、アルノ川がうるおす広大で肥沃な平野全域の支配計画を進めた。

1300年頃、二つの党派、教皇派・教皇党ネーリ(黒党)と皇帝党のビアンキ(白党)による内乱がはじまった。内乱は終止符が打たれ、敗れたビアンキに所属し、医師組合からプリオリに推されていたダンテ・アリギエーリ1302年、フィレンツェから追放される[1]。このような内部抗争が起ころうとも、都市は繁栄していた。

その後、遠隔地との交易にくわえて、毛織物業を中心とする製造業と金融業でフィレンツェ市民は莫大な富を蓄積し、フィレンツェはトスカーナの中心都市となり、最終的にはトスカーナの大部分を支配したフィレンツェ共和国の首都になった。そのうえ、商人と職人が強力な同業者組合を組織したことでフィレンツェは安定していた。もっとも裕福だった毛織物組合は14世紀の初めに約3万人の労働者をかかえ、200の店舗を所有していた。 メディチ家は金融業などで有力になり、商人と銀行家は市政の指導的な立場にたち、フィレンツェを美しい都市にする事業に着手した。14~15世紀にはミラノとの戦争をくりかえしたが、1406年にアルノ川下流にあるピサを獲得して待望の海を手にした。

1433年、労働者と富裕階級の衝突は頂点に達し、コジモ・デ・メディチは貴族党派によってフィレンツェから追放された。だが、翌年コジモは復帰して敵対者を追放し、下層階級と手をむすぶことで名目上は一市民でありながら、共和国の真の支配者となった。彼の死後は、その子ピエロにその権力を継承し、孫のロレンツォの時代には、フィレンツェはルネサンスの中心として黄金時代を迎えた。

ロレンツォ・イル・マニフィコ(偉大なるロレンツォ)とよばれたロレンツォは、学問と芸術の大保護者で画家のサンドロ・ボッティチェッリや人文主義者をその周囲にあつめた。ロレンツォは共和国政府を骨抜きにし、その野心的な外交政策で、フィレンツェは一時的にイタリア諸国家間の勢力の均衡をたもたせることになった。フィレンツェのフロリン金貨は、全ヨーロッパの貿易の基準通貨となってフィレンツェの商業は世界を支配した。建築、絵画、彫刻におけるルネサンス芸術は、15世紀をとおして大きく開花し、サンドロ・ボッティチェッリレオナルド・ダ・ヴィンチミケランジェロラファエロなどの巨匠が活躍するルネサンス文化の中心地となって学問・芸術の大輪の花が開いた。

ロレンツォの跡をついだ子のピエロ2世は、1494年秋にナポリ王国の回復と称してイタリアを侵略したフランスシャルル8世に対して20万グルテンの賠償と、かつて征服したピサをフランスに渡すという屈辱的な譲歩をした[2]。これに憤慨した民衆は、同年ピエロを含む一族をフィレンツェから追放し、共和制をしいた。ピエロ失脚後にフィレンツェの指導者として登場したのは、ドミニコ会サン・マルコ修道院の院長ジロラモ・サヴォナローラだった。しかしロレンツォの宮廷のぜいたくを痛烈に非難していたサヴォナローラは、教皇をも批判するようになり、少しずつ民衆の支持を失っていった。1498年、サヴォナローラはとうとう民衆にとらえられ、裁判にかけられたのち処刑された。1512年スペイン軍によって権力の座に復帰したメディチ家は、1527年ふたたび追放されたが、1531年には復帰し、1569年、教皇の手でトスカーナ大公の称号がメディチ家に授与され、フィレンツェはトスカーナ大公国の首都となったが、政治的・経済的に次第に衰退した。

1737年に継承者がとだえ、メディチ家のトスカーナ支配はおわった。トスカーナ大公国はオーストリアハプスブルク家に継承された。フェルディナンド3世は、1799年フランスによって退位させられたが、1814年復帰した。1849年に追放されたレオポルド2世はオーストリア軍とともに復帰したが、イタリアの独立をもとめる戦いが続き、1859年に退位した。結局、18世紀から19世紀までフィレンツェはナポレオン時代を除いてハプスブルク家の支配下にあったが、1860年イタリア王国に合併され、1865年からヴィットーリオ・エマヌエーレ2世のおさめるイタリア王国の首都となるものの、1871年首都はローマに移された。

第二次世界大戦中、フィレンツェの記念建築物の大部分は被害をまぬがれたが、ポンテ・ベッキオをのぞく橋のすべてが1944年に破壊された。また1966年の大洪水でたくさんの芸術財産が被害をうけたが、その多くは精巧な修復技術で数年をかけて復元された。


[編集] コムーネの行政

[編集] 経済

観光業、繊維工業、金属加工業、製薬業、ガラス窯業ジュエリー刺繍などの工芸が盛んである。 観光はサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂サンタ・クローチェ聖堂サン・ロレンツォ聖堂サンタ・マリア・ノヴェッラ教会ウフィツィ美術館などの歴史的な建造物が中心である。 貴金属皮ジャケットなどの革製品、フィレンツェ紙や、手作り香水や化粧品、焼き物など、伝統的手工芸製品の小売店も多い。

[編集] 観光

フィレンツェ
橋上家屋で有名なポンテ・ヴェッキオ

[編集] 交通

鉄道では、トレニタリアの路線がいくつもフィレンツェを一つの拠点とし、各都市とを結んでいる。街のターミナル駅は市街地に近いフィレンツェ・サンタ・マリア・ノヴェッラ駅(フィレンツェSMN駅)で、ユーロスター・イタリアをはじめとする優等列車、さらにはヨーロッパの他国へ向かう国際列車が発着する。

街の外縁にはフィレンツェ・リフレディ駅フィレンツェ・カンポ・ディ・マルテ駅といった中核駅があり、頭端式ホームを採用しているフィレンツェSMN駅での折り返しを避けるため、短絡線を経由して同駅に立ち寄らず、代わりにそれら外縁の駅をフィレンツェにおける停車駅としている列車が存在する。

街内には軌道系交通機関は存在せず、交通はもっぱら路線バスが担っている。またフィレンツェSMN駅の周辺には都市間バスのターミナルがあり、ルッカプラートアレッツォサン・ジミニャーノなどへ向かうバスが発着している。

空港は中規模空港であるフィレンツェ・ペレトラ空港が北西の郊外にあり、ヨーロッパ各地とを結んでいる。しかし滑走路が1,700m程度しかなく大型機の発着は困難であるため、フィレンツェから西に鉄道(レオポルダ線)ないしバスで1時間程度行ったところにある、ピサガリレオ・ガリレイ国際空港も実質的にフィレンツェの玄関として機能している。

[編集] スポーツチーム

イタリアサッカーリーグのセリエAACFフィオレンティーナ (ACF Fiorentina SpA)が本拠を置いている。かつて、中田英寿が在籍していた。

[編集] 姉妹都市

フィレンツェ市には多くの姉妹都市がある。

[編集] フィレンツェの著名な人物

政争に敗れ、死刑宣告を受けてフィレンツェを追放される。その大著『神曲』の中では、フィレンツェの堕落を嘆き、悪し様に罵っている。『神曲』天国篇完成後、1321年ラヴェンナで客死して当地に埋められた。フィレンツェは遺骨の返還を要求しているが、ラヴェンナはこれに応じていない。

[編集] フィレンツェが登場するフィクション

[編集] 小説

[編集] 戯曲

[編集] 映画

[編集] コンピュータゲーム

[編集] 漫画

[編集] 関連項目

[編集] 脚注

  1. ^ 西村貞二『マキャベリズム』講談社・1991(p.32)
  2. ^ 西村貞二『マキャベリズム』講談社・1991(p.36)

[編集] 外部リンク

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