ポーランド
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- ポーランド共和国
- Rzeczpospolita Polska
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(国旗) (国章) - 国の標語: なし1
- 国歌: ドンブロフスキのマズルカ

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公用語 ポーランド語 首都 ワルシャワ 最大の都市 ワルシャワ 独立 ロシア帝国から
1918年11月11日通貨 ズウォティ(PLN) 時間帯 UTC +1(DST: +2) ISO 3166-1 PL / POL ccTLD .pl 国際電話番号 48 - 注1: ポーランドには公式な標語は存在しないが、過去、国家のシンボルに、Bóg, Honor, Ojczyzna(神、名誉、祖国)などの標語が書かれたことがあった。
ポーランド共和国(ポーランドきょうわこく)、通称ポーランドは、中央ヨーロッパに位置する共和制国家。北にはバルト海が広がり、北東ではロシアの飛地であるカリーニングラード州とリトアニア、東ではベラルーシとウクライナ、南ではチェコとスロバキア、西ではドイツと接する。首都はワルシャワ。
10世紀に国家として認知され、14世紀から17世紀にかけては大王国を形成した。その後衰退し、18世紀には3度にわたり国土が隣国に分割されて消滅した。第一次世界大戦後の1918年に独立したが、第二次世界大戦ではナチス・ドイツとソ連の侵略を受けて再び国土が分割された。戦後の1952年に人民共和国として国家主権を復活、1989年に民主化を果たして共和国となる。
冷戦時代はソ連の影響下に置かれ、共産主義政権が支配したため、政治的に東欧に含められてきたが、国内の民主化とソ連の崩壊を経て、その地理的文化的位置づけから中欧または中東欧として再び分類されるようになっている。
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[編集] 国名
正式名称はポーランド語で Rzeczpospolita Polska(ジェチュポスポリタ・ポルスカ)。通称 Polska。略称 RP。
公式の英語表記は Republic of Poland。通称 Poland。
日本語の表記はポーランド共和国。通称ポーランド(波蘭)、略語は波。
ポーランドの国名の「ポルスカ(Polska)」は野原を意味する「ポーレ (pole)」 が語源と言われている。最初にポーランドを建国した部族は「レフ/レック族(Lechici)」といい、また同時に「ポラン族(Polanie)」とも称した(「レフ/レック」Lechは古代ポラン族の伝説上の最初の族長の名前であるが、LechはPoleと同じく「野原」を原義とするともいわれる)。日本語に直訳すれば「ポラン」族は「原」族となる。
すなわちポルスカ(Polska)はこの「ポラン族(Polanie)の国」というのが元来の意味となる。
「共和国」に相当する "Rzeczpospolita"(ジェチュポスポリタ)は、「公共のもの」を意味するラテン語の "res publica"(レス・プブリカ)の翻訳借用である。"res"(レス)には「物」や「財産」という意味があり、ポーランド語では"rzecz"(ジェチュ)がこれにあたる。"publica"(プブリカ)は「公共の」という意味で、ポーランド語では "pospolita"(ポスポリタ)にあたる。
[編集] 歴史
詳細は「ポーランドの歴史」、「ポーランド王国」をそれぞれ参照
[編集] ポーランド王国成立以前
ポーランド人の基幹部族となったレフ族/ポラン族(Lechici/Polanie)については、古代ローマ時代の歴史家タキトゥスの本『ゲルマニア』の中で現在のポーランド南西部に住んでいたと書かれている「ルギイ族(Lugii)」との関連が指摘されている。彼らは「プシェヴォルスク文化(Przeworsk culture)」と呼ばれる、周辺のゲルマン諸部族とは異なる独特の文化を持つ集団で、プシェヴォルスク文化は、当時ゴート族のものと推定されるヴィェルバルク文化を挟んではるか東方にあった「ザルビンツィ文化(Zarubintsy culture)」と似通っていることが考古学調査で判明している。プシェヴォルスク文化とザルビンツィ文化は共通した文化圏で、もとは一つであり、ヴィスワ川河口付近からゴート族が入りこみ間に割って入って川を遡上しながら南下していったためこの文化圏が西方のプシェヴォルスク文化と東方のザルビンツィ文化に分裂したものと考えられる。
4世紀、プシェヴォルスク文化の担い手は、ゲルマン民族のブルグント族の隣、ヴィスワ川が大きく屈曲して作った平野の、当時は深い森や入り組んだ湿原(現在はかなり縮小したとはいえいまだ広大な湿原が残っている)だった場所に住んでいた。その地理的な理由からフン族の侵入を免れ、ゲルマン民族の大移動の後に東方からやってきて中欧に定住した「プラハ・コルチャク文化(Prague-Korchak culture)」を持つ他のスラヴ諸部族と混交して拡大していったものが中世にレフ族(Lechici)あるいはポラン族(Polanie)としてヨーロッパの歴史書に再登場したとされる。この説ではルギイ(Lugii)はレフ/レック(Lech)のラテン語における転訛となる。なお、他のスラヴ語、たとえばロシア語では今でも「ルーク(Lug)」と「ポーレ(Pole)」はどちらも「野原」を原義とする言葉である。ロシア人を含む東スラヴ人はもともとポーランド人をリャキ(Lyakhi)と呼んでいた(現在はパリャキPalyakhiと呼ぶ)。リトアニア人はポーランド人をレンカイ(Lenkai)、ハンガリー人はポーランド人をレンジェレク(Lengyelek)と呼ぶ。
6世紀までにはこの地に現在のスラヴ民族が定住し、一種の環濠集落を多数建設した。遅くとも8世紀までには現在のポーランド人の基となる北西スラヴ系諸部族が異教(非キリスト教)の諸国家を築いていた。
8世紀、それまでレフ族/ポラン族(Lech/Polanie)とゴプラン族(Goplanie)を治めていた、後に「ポピェリド朝(Popielidzi)」と呼ばれることになった族長家の最後の当主ポピェリド(Popielid)が没し、「車大工のピャスト(Piast Kołodziej)」と呼ばれた人物(一説にはポピェリドの宮宰だったともされる)がレフ族/レック族の族長に選出され、「ピャスト朝」を創始した。
[編集] 王国の黎明期
966年、ピャスト朝レフ族/レック族(ポラン族/ポラニェ族)の5代目の族長ミェシュコが近隣のヴィスワ諸部族(Wiślanie)、ポモージェ諸部族(Pomorzanie)、マゾフシェ諸部族(Mazowszanie)などをレフ族に統合させ、自らキリスト教に改宗してミェシュコ1世公となり、国家はポーランド公国として西欧キリスト教世界に認知された。
992年にミェシュコ1世の息子ボレスワフ1世が後を継ぐと、この新しいポーランド公は西欧キリスト教世界におけるポーランド公国の領土を画定し、中央政府の権力を強め、武力によって国家を統合した。彼が確定したポーランド公国領は現在のポーランド領とほぼ一致する。彼はオットー3世やハインリヒ2世の神聖ローマ帝国、クヌーズ1世のデンマークと積極的に外交した。1000年、オットー3世はポーランド公国の首都ポズナニ近郊のグニェズノへ自ら赴いてボレスワフ1世と会談し、そこに大司教座を置くことに合意した。ポーランド大司教座は以後現在に至るまでグニェズノにあり、グニェズノ大聖堂の扉はこの時代に製作されたものである。ボレスワフ1世は必ずしも神聖ローマ皇帝の権威を受け入れたわけではなかった。彼は神聖ローマ帝国領であった南のボヘミアへ軍を進めて1004年に自らボヘミア公となり、1018年に東へ軍を進めてキエフ・ルーシを攻略した同年こんどは西の神聖ローマ帝国領内に侵攻しバウツェン(ブジシン)の講和(Peace of Bautzen)によりマイセン(ポーランド語でミシニャ)とラウジッツ(ポーランド語でウジツェ)を獲得、その結果中欧に広大な新領土を確保した。その間、1015年には、若い友であり、また同時に妹の息子すなわち甥でもあったデンマーク王クヌーズ1世のイングランド遠征の援助をするため、自らの軍の一部を貸し出し、北海帝国の建設を援助した。1020年にはクラクフのヴァヴェル大聖堂の着工が開始されたとされる。
1025年、ボレスワフ1世の死の直前にローマ教皇ヨハネス19世によってポーランド公国は王国として認知されポーランド王国となり、国境を確定した。王国領は西ポモージェ地方を除く現在のポーランド、チェコのモラヴィア地方、スロヴァキアのほぼ全域、オーストリアの一部、ハンガリーの一部、ドイツのラウジッツ地方、ウクライナの「赤ルーシ」地方となる。ボレスワフ1世が治めた属領も含めてすべてを合わせると西ポモージェ地方も含めた現在のポーランドのほぼ全域、チェコのほぼ全域、スロヴァキアのほぼ全域、オーストリアの一部、ハンガリーの一部、ウクライナ西部の赤ルーシ地方、ベラルーシ(白ルーシ)のブレスト地方、ドイツのラウジッツ地方とマイセン地方となる。
ポーランドが王国と認知されてまもなくボレスワフ1世が没したため、最初の戴冠式を受けたのは息子のミェシュコ2世である。しかし王国内の各地の諸侯は王権のこれ以上の拡大に危惧を抱いた。1034年、ミェシュコ2世は謎の死を遂げた。その後数年間は政治的な混乱の時代が続いた。
1038年、時のポーランド公カジミェシュ1世は政治が滞っていた首都ポズナニを離れ、クラクフへと事実上の遷都をした。正式な戴冠はしていなかったがポーランド王国の事実上の君主であった公は混乱を収拾し王国を再び纏め上げた。また、公はヴァヴェル大聖堂を大改築し、クラクフとヴロツワフに司教座を置いた。その長男で1058年に公位を継いだボレスワフ2世は神聖ローマ帝国皇帝とローマ教皇との間で起きていた叙任権闘争をうまく利用し、1076年にポーランド王位についた。
[編集] 長い分裂時代
1138年、ボレスワフ3世は王国の領土を7つに分割してそのうち5つを后と4人の息子たちにそれぞれ相続させ、そのうちの長男ヴワディスワフ2世にはさらにクラクフ大公領を与えてクラクフ大公とし、以後はクラクフ大公に就いた者がポーランドの王権を継ぐこととした。残りのポモージェ地方はポーランド王国の直轄領とし、現地の諸侯に実質的支配を任せた。1079年に大公位についたヴワディスワフ2世は国家の統一を画策し、大公の権力強化に反対するグニェズノの大司教と対立して大公支持派と大司教支持派の間で内戦となった。戦争は長引き、王国はどんどん小さな領邦に分裂していった。
1146年、時の大公ヴワディスワフ3世はフリードリヒ・バルバロッサ(のちの神聖ローマ帝国皇帝フリードリッヒ1世)からの援助を得る見返りに当時の神聖ローマ皇帝ロタール3世に臣従し、これによってシロンスク公領の支配権を得た。「シロンスク・ピャスト朝」の始まりである。これによってシロンスク公領は当地のピャスト家が支配したままポーランド王国からは独立した状態となった。グニェズノ大司教をないがしろにしたうえシロンスク地方をポーランド王国から独立させたことがポーランド国内で大問題となり、ヴワディスワフ3世は大司教から破門され、神聖ローマ帝国へ亡命して後にフリードリヒ1世の居城で客死した。シロンスク公国は以後もシロンスク・ピャスト家の者が後を継いでいくことになり、そのうちの一族は17世紀まで続いた(庶子の系統は地方領主として18世紀まで続いた)。
以後もクラクフ大公の位は継続したがその権威は地に墜ち、ポーランド王国は王位を継ぐものがいないまま各地の領邦にどんどん分裂していった。
1226年、時のマゾフシェ公コンラートは北方のバルト海沿岸に住むプルシ(プルーセン)人の来襲に悩まされたあげく、ドイツ騎士団にプルシへの十字軍遠征を許可した。ドイツ騎士団は神聖ローマ皇帝の勅書を得て北方に向かい、以後50年の間バルト海沿岸地方で活動し、キリスト教の洗礼を受けないプルシ人は皆殺しにした。ドイツ騎士団はローマ教皇からの勅許を得たと主張してこの地に定住した。さらにドイツから入植者を呼び寄せてこの地を開拓させた。
1241年にはモンゴルのバトゥの軍の一部がポーランド南部に来襲し、サンドミェシュやクラクフなど南部の諸都市を襲ってシロンスクに侵攻した。時のシロンスク公でクラクフ公も兼ねていたヘンリク2世はポーランド人とドイツ人から編成された軍を率いてレグニツァでモンゴル軍を迎え撃った(ポーランド名レグニツァの戦い、ドイツ名ワールシュタットの戦い)。装備・物量で劣っていたヨーロッパの軍は果敢に戦ったが敗北し、ヘンリク2世も戦死した。
なおこの事件は元寇(1274年と1281年)に先立って1268年に中国のモンゴル人王朝である元から日本に送られた国書の中で触れられており、これは「ポーランド」の名前が遠くアジアの東端に住む日本人に知られた最初の出来事とされている。
まもなくモンゴル軍はアジアへ引き返したが、それまでにクラクフ公領とシロンスク公領の南部はモンゴル軍に略奪され、逃げ遅れた住民は殺され、これらの地方はほぼ無人となり荒廃してしまっていた。以後はモンゴル軍に襲われた地方の復興がこの地域の諸侯の最優先課題となった。モンゴル軍のいる間は疎開していたポーランド人住民もやっと戻ってきたが、それでは人手が全く足りなかった。侯たちはドイツや西欧から開拓民を呼び寄せた。この地域における本格的な東方殖民の始まりである。彼らは特にシロンスクとその周辺に定住し、多くの街を作った。これらの街では従来のポーランドの法律でなく、それまでドイツ人が故郷で慣れ親しんでいたマグデブルク法という都市法が適用された。これは当時の領主たちが西方からの植民者に与えたインセンティブであった。農村などその他の地域ではポーランド人の伝統法が使われた。以後は特にシロンスク地方を中心としたポーランド西南部にドイツ系住民が増え、原住民のポーランド人と混住していく。
ポーランド北部におけるドイツ騎士団の十字軍、そして南部におけるモンゴル襲来後のドイツ入植者の受け入れはこれらの地域の経済や文化の発展をもたらした反面、19世紀から20世紀にかけてのポーランド人とドイツ人との間の激しい民族紛争の遠因ともなった。
1295年、プシェミスウ2世が全ポーランドの君主としてポーランド国王に即位、ポーランド王国はほぼ2世紀ぶりに名目的統一を果たしたが、この王は翌年何者かに暗殺されてしまった。この後同じくピャスト家のヴワディスワフが王権を求めて運動した。彼は農民、騎士、聖職者から支持されたが、ピャスト家の人物が王になると君主の権力が強化されて自分たちの自由が失われると恐れたクラクフの貴族たちによってプシェミスル朝のボヘミア王ヴァーツラフ2世がポーランド王に推挙されてしまい、ローマ教皇ボニファティウス8世の勅許が降りてヴァツワフ2世として即位した。ヴワディスワフは王位を巡ってこの新しい国王と争うのを避け、かわりにこの雌伏の期間に農民や騎士を率いて自らの軍を作り、ポーランドのほかの地域を武力で支配下に置く活動をした。将来のポーランドの真の統一へ向けての準備であった。ヴァツワフ2世の息子で1305年にポーランド王位を継いだヴァツワフ3世(ボヘミア王ヴァーツラフ3世)が翌年の1306年に何者かによって暗殺されると、ヴワディスワフがクラクフ大公に即位し、ヴワディスワフ1世としてポーランド統一に向けてさらに軍事行動を進めた。彼は1318年までにポーランド全土を自らの支配下に置いた。強力なポーランド君主が現れることを脅威と感じていたローマ教皇ヨハネス22世はヴワディスワフ1世への戴冠を渋ったが、しかしついには折れて国王即位の勅許を出した。1320年、ヴワディスワフ1世はポーランド王位に即位し、ポーランド再統一を完成させた。
[編集] 黄金時代
14世紀には西欧のペスト大流行で、ペストを流行させた犯人だというデマで特にドイツで迫害されたユダヤ人が、ポーランド王国の宗教的・民族的寛容さから、多数、移住してきた。以後、ポーランド王国は世界で最もユダヤ系住民の多い国家となった。当時は、ヴワディスワフ1世の子で、軍事、外交、内政に巧みな手腕を発揮したカジミェシュ3世「大王」がポーランド王国を治めており、彼の治世にポーランドは経済的な大発展をした。1364年、カジミェシュ3世はクラクフ大学(ヤギェウォ大学)を創立し、これ以後ポーランドの学術文化が華麗に開花していく。
1385年、ポーランド女王ヤドヴィガとリトアニア大公ヨガイラ(ポーランド語名ヤギェウォ)が結婚し、ポーランド王国とリトアニア大公国は人的同君連合と呼ばれる緩やかな国家連合であるポーランド=リトアニア連合を形成した(クレヴォの合同)。1399年にヤドヴィガ女王が没するとヤギェウォがポーランド王に即位し、以後ヤギェウォ朝がポーランドを統治することになった。1410年、ポーランド=リトアニア連合はグルンヴァルトの戦いでドイツ騎士団を討ち、ドイツ騎士団領をポーランド王の支配下に置いた[3]。以後、ドイツ騎士団はポーランド王に忠誠を誓う封臣、ドイツ騎士団領はポーランド王国の封土となり、ドイツ騎士団領はポーランド=リトアニア連合に隷属する状態となった。
1414年から開催されたコンスタンツ公会議ではグルンヴァルトの戦いの戦後処理について話し合われた。会議では当時異教徒の国であったリトアニアとキリスト教徒の国であるポーランド王国が同盟して、キリスト教徒のドイツ騎士団と戦争をした点が大問題となり、これについてポーランドに対してドイツ騎士団側からの激しい非難があった。ドイツ騎士団は「異教徒と同盟してキリスト教徒のドイツ騎士団を討伐したポーランドの行動は罪であり、この罪によって、ポーランド人は地上から絶滅されるべきである。」と主張した。ポーランド全権でクラクフ大学校長であったパヴェウ・ヴウォトコヴィツ(Paweł Włodkowic、ラテン語名パウルス・ウラディーミリ)は画期的な主張をした。内容を簡単に要約すると、「リトアニア人のような異教徒であってもわれわれキリスト教徒と全く同じ人間である。したがって彼らは自らの政府を持つ権利(国家主権)、平和に暮らす権利(生存権)、自らの財産に対する権利(財産権)を生まれながらに保有する。よってリトアニア人がこの権利を行使し、自衛するの(自衛権)はまったく正当である。」というもので、これはまさに現代思想の基本的人権および国際法の理念の世界で初めての提唱であった。
1430年にリトアニア大公のヴィタウタス(ポーランド語名ヴィトルト)が没すると、ポーランド=リトアニア連合内はよりポーランド王の権威と権限を強め、事実上ポーランド王国の支配下に入り、全てのリトアニア貴族はポーランド語とポーランドの習慣を身につけてポーランド化していった。
1543年、ミコワイ・コペルニク(ラテン語名ニコラウス・コペルニクス)は著書『天球の回転について(De revoltionibus orbium coelestium)』を出版、地動説を提唱した。
1569年、ポーランドはリトアニアを併合(ルブリン合同)してポーランド王を統一君主とする物的同君連合の「ポーランド=リトアニア共和国」(第1共和国)となり、欧州最強最大の国家として君臨した。以後ポーランド=リトアニア国家は単に「ポーランド」とだけ呼ばれることも多くなった。
1572年、ヤギェウォ朝の唯一の男子であった時の国王ジグムント2世が男子を残さずに没し、ヤギェウォ家の「男系」の血筋は途絶えた。以後ポーランド=リトアニア連合王国は全てのシュラフタ(ポーランド貴族)が参加する選挙によって国王を決定する「選挙王政」を採る貴族共和国になった。ポーランド貴族の人数は常に人口の1割を超えておりその全てに平等に選挙権が付与されていた。アメリカ合衆国が18世紀末に独立してからしばらくの間選挙権を持つ者が合衆国全人口の1割に満たなかったことを考慮すると、当時のポーランド=リトアニア連合王国では後のアメリカ合衆国に比べ選挙権を持つ国民の割合が大きかったことになる。
[編集] 対外戦争の時代
1592年、ポーランド=リトアニア共和国はスウェーデン王国と同君連合となった。時の国王ジグムント3世(スウェーデン国王としての名はジギスムント)はスウェーデン生まれであるが、母がヤギェウォ家の血をひくポーランド人だったこともあって若いときからポーランドに住み、ポーランドの教育を受けていた。当初は当時の首都であったクラクフに居を構えた。1596年にはワルシャワに遷都した。以後現在までワルシャワがポーランドの首都となる。スウェーデンでは叔父で摂政を務めていたカールの反乱がおき、ジグムント3世はスウェーデンに軍を進めたが鎮圧に失敗し、1599年にスウェーデン王位を剥奪され、ポーランド=スウェーデン同君連合は解消した。
1611年、ジグムント3世はモスクワ大公国に侵攻しモスクワを占領した(ロシア・ポーランド戦争)。当初はポーランド=リトアニア=ロシア同君連合国家の実現は成功したと見られたが、占領中に「ロシア皇帝位にはカトリック教徒のポーランド国王あるいはその王太子のみが就く」という布告を出したことからロシア正教徒であるロシア人との間で宗教的対立を生じ、住民蜂起が起きたため1612年に撤退した。その後たび重なる戦争(ポーランド・スウェーデン戦争、大洪水時代)によりポーランド=リトアニア連合王国の財政は急速に悪化していった。
1683年にオスマン帝国による第二次ウィーン包囲を撃退し、全ヨーロッパの英雄となったヤン3世ソビエスキ王は以後、王国中央政府の権力を強めるため世襲王政を画策するなど王国再興を目指して奔走したが、志半ばで没した。その後王権は急速に弱まり、国庫は逼迫し、国力は衰退していった。
[編集] ポーランド分割
18世紀後半にはポーランド=リトアニア共和国の国土が他国に分割占領(ポーランド分割)された。1772年に第一次ポーランド分割が行われた後、スタニスワフ2世王と支持者は、ポーランド=リトアニア連合王国の衰退を止めようと国内の大改革を断行しようとした。1791年、王はヨーロッパ初の成文憲法案を提出し、議会(セイム)はこれを可決した(「5月3日憲法」)。この憲法によって王権の世襲制とともに、世界初の立憲君主制が成立し、ポーランド=リトアニア共和国は単一国家の「ポーランド王国」となった。1793年、議会によりワルシャワに国民教育委員会(Komisja Edukacji Narodowej, KEN)が設立された。これは貴族から平民まですべてのポーランド人を対象にしたものであり、人類史上初の教育省とされている。立憲君主制、すなわち民主主義に反対し貴族の既得権益を維持しようとする改革抵抗勢力はエカチェリーナ2世と結託した。ロシア帝国軍はポーランドに干渉戦争を起こした(ポーランド=ロシア戦争)。ポーランド軍は王の甥ユゼフ・ポニャトフスキと元アメリカ軍将軍でアメリカ独立戦争の英雄タデウシュ・コシチュシュコ(アメリカ名タディーアス・コシューシコ)が指揮を取った。戦局は一見ロシア軍優位に見えたが、実はポーランド側の戦術どおりに進んでいた。しかし抵抗勢力側に寝返った顧問から「勝利の望みは薄いので早期講和を」との助言を受けたスタニスワフ2世は抵抗勢力側と妥協して戦争を中止してしまった。この直後の1793年、第二次ポーランド分割が行われた。1793-94年、コシチューシュコが蜂起を起こしたが鎮圧された(「コシチューシュコ蜂起」)。1795年、第三次ポーランド分割が行われ、ポーランド国家は消滅した。ポーランドの大貴族(「マグナート」と呼ばれる)の広大な領地はそのほとんどがポーランド東部に集中しており、この地域はロシア帝国に組み込まれた。マグナートの領地は、各領主がロシア皇帝に臣従を誓うことを条件に守られた。
[編集] つかの間の再興
詳細は「ワルシャワ公国」を参照
1807年、ナポレオン戦争でポーランドはワルシャワ公国として再び独立した。しかし、ナポレオンがロシア遠征に失敗して失脚すると、1815年のウィーン会議によって、ロシア皇帝を元首とするポーランド立憲王国となった。多くのポーランド人が国外、特にフランスに亡命した。アダム・ミツキェヴィチの叙事詩『パン・タデウシュ』(アンジェイ・ワイダが監督した映画『パン・タデウシュ物語』の着想源)と、日本の漫画家池田理代子の漫画『天の涯まで-ポーランド秘史』はこの時代を扱っている。
[編集] 独立運動の時代
詳細は「ポーランド立憲王国」を参照
ポーランド立憲王国における憲法はロシアによって無視された。フランスやベルギーの革命にポーランド軍を派遣して介入しようとしたことにポーランド全土で反対運動が起こり、1830年、ロシア帝国からの独立を目指して「十一月蜂起」が起こったが、翌年鎮圧された。ポーランド出身の作曲家ショパンは国外にて蜂起発生の報を聞き、かの有名な「革命のエチュード」を書いた。世界最高級とされる時計ブランド「パテック・フィリップ」の2人の創業者アントーニ・パテック(ワルシャワで育ったポーランド貴族、後にアントワーヌ・ノルベール・ド・パテックに改名)とフランティシェック・チャペック(ボヘミアからワルシャワへやってきた移民の時計職人、後にフランソワ・パテックに改名)はこのときの戦いにそれぞれポーランド軍将校および兵士として参加している。
1856年にロシア帝国がクリミア戦争に敗れて国力が弱体化すると、これを機にポーランド・リトアニア連合王国の復活を目指す人々が結集し、1863年、旧ポーランド王国領と、旧リトアニア大公国領で同時に「一月蜂起」を起こしたが、これもロシア帝国によって鎮圧された。数百人のポーランド貴族が絞首刑にされ、十数万人がシベリアのイルクーツクなどに流刑となった[2]。
プロイセン王国内の旧ポーランド王国領であるポーゼン州(旧ポズナン大公国)では、1871年からはビスマルクの文化闘争により、ポーランド人に対する抑圧政策が行われた。文化闘争はドイツ人も含めプロイセン王国内のすべてのカトリック教徒を対象としていたが、ポーランド人は圧倒的多数がカトリック教徒であったため、特に抑圧の対象になった。カトリック教徒に対する文化闘争は1878年に頓挫したが、ビスマルクはその後もポーランド人抑圧政策を続けた。ポーランド人は抑圧に対してポーランド文化をもって徹底抵抗した。抑圧政策によってかえってポーランド人の「連帯」とカトリック信仰は確固たるものになった。ポーランド人抑圧政策はヴィルヘルム2世がビスマルクを解任した後も続けられ、ドイツ帝国が第一次世界大戦で敗北した1918年に終了した。
1916年、第一次世界大戦の最中にドイツ帝国によってその衛星国としてのポーランド王国が建国された。国王が決まるまでの間としてハンス・ハルトヴィヒ・フォン・ベセラーが総督となり、3人のポーランド人が摂政を務め、6人のポーランド人政治家が歴代首相となった。2人の娘がいずれもポーランドの名門大貴族に嫁いでおり、自らもポーランドのジヴィエツ(Żywiec)に住み流暢なポーランド語を話したオーストリア=ハンガリー帝国の皇族カール・シュテファン大公(Karl Stephan, ポーランド名カロル・ステファン・ハプスブルク)がポーランド国王の最有力候補で、カール本人も積極的であった。しかしこの案にはオーストリア皇帝カール1世が乗り気でなく、結局最後までポーランド王国の国王となる人物はついに決まらなかった(カール・シュテファンは1918年にポーランドが独立した後もポーランドに帰化してジヴィエツに住み続け、1933年に当地で死去した。子孫はポーランド人として今もガリツィア地方に住んでいる[3]。
[編集] 独立と第二共和国
詳細は「ポーランド第二共和国」を参照
1918年に第一次世界大戦が終結すると、ヴェルサイユ条約の民族自決の原則により、ドイツとソビエト連邦から領土が割譲され、ユゼフ・ピウスツキを国家元首として共和制のポーランド国家が再生した。
1920年にはソヴィエト連邦に対する干渉戦争の一環としてソヴィエトへ侵攻し、ポーランド・ソビエト戦争が発生した。緒戦にはウクライナのキエフ近郊まで迫ったが、トゥハチェフスキー率いる赤軍が反撃。逆にワルシャワ近郊まで攻め込まれた。しかしこれに驚いた欧米、とりわけフランスからの援助を受け、ポーランド軍は赤軍を押し返すことに成功、翌年に停戦した。
1922年に国家元首職を引退したピウスツキは、その後の政界の腐敗を憂い、1926年にクーデターを起こして政権を奪取した。ピウスツキはポーランド国民の圧倒的支持のもと、開発独裁を主導した。この時期にポーランドの経済は急速に発展し、国力が強化された。国民のカリスマであったピウスツキが1935年に死亡すると、ユゼフ・ベックを中心としたピウスツキの部下たちが集団指導体制で政権を運営したが、内政・外交で失敗を繰り返し、その点をナチス・ドイツとソヴィエト連邦につけ込まれるようになった。
[編集] 第二次世界大戦
1939年8月、ナチス・ドイツとソヴィエト連邦が締結した独ソ不可侵条約の秘密条項によって、国土は再び両国に分割されることになる。1939年9月1日、グダニスク近郊のヴェステルプラッテのポーランド軍陣地への砲撃を手始めにドイツ軍とスロヴァキア軍が、9月17日にはソ連軍が東部国境を越えてポーランド侵攻を開始してポーランド軍を撃破し、ポーランド領土はドイツ、スロバキア、ソ連、リトアニアの4か国で分割占領された。ポーランド亡命政府は当初パリ次いでロンドンに拠点を移し、戦中のポーランド人は国内外で様々な反独闘争を展開した。
[編集] 戦後
詳細は「ポーランド人民共和国」を参照
1945年、第二次世界大戦が終結するとポーランドは復活したが、その国の形は終戦前に行われた英・米・ソのヤルタ会談によって定められた。
「ヤルタ会談#ポーランド問題」も参照
カティンの森事件などでソ連と敵対したポーランド亡命政府は帰国することが出来ず、ルブリンに置かれたソ連主導のルブリン政権が新たなポーランド国家となった。また領土が戦前と比べて大きく西方向に平行移動した。ソ連はポーランド侵攻以来占拠していたポーランド東部を正式に自国へ併合した代わりに、ドイツ東部をポーランドに与えた。これはスターリンが、992年にボレスワフ1世が確定したポーランド公国国境の回復に固執した結果である。事実、新しい国境線はボレスワフ1世時代のポーランド公国の国境線の位置に非常に近いものとなった。さらに軍事的理由から、ドイツとの国境線はほぼ最短となるように調整された。これにより、敗戦国ドイツは戦前の領土の25%を失うこととなった。現在の領土の西側3分の1近くが戦前のドイツ領である一方、この地域の大半は14世紀までポーランド王国領であり、その後も最終的にプロイセン王国に併合されるまでポーランドの影響が及ぶ地域もあったため、ポーランドの視点では数百年ぶりの領土回復となった。このため旧ドイツ領の地域は、回復領と呼ばれた。
この地域には100万人のポーランド人(原住民)とともに300万人のドイツ人が住んでいたが、赤軍の進攻を恐れて多くのドイツ人が西へ逃避してしまっていた。残ったドイツ人の多くも強制移住によりポーランド国外へ退去させられた(ドイツ人追放)。共産主義政権により民族を問わずポーランドに居住する住民すべてを対象に財産の国有化が行われ、これらドイツ人が残した不動産も国有化された。ただしソビエト連邦におけるような農業集団化はおこなわれなかった。
一方、ソ連に併合された旧ポーランド東部地域ではポーランド系住民が国境変更にともない、120万人が退去してポーランドに移住してきた。
終戦後は、ソヴィエト連邦の強い影響下に置かれるとともに、ワルシャワ条約機構や、1949年1月ソヴィエト連邦によって、西側のマーシャル=プランに対抗するものとして設立されたコメコン(経済協力機構)に参加。社会主義国となり、東側陣営に組み込まれ、東西冷戦に巻き込まれた。
しかしソヴィエト連邦の支配する体制による抑圧に抵抗する市民による民主化運動はこの期間に確固たるものとなり、運動は拡大していった。1979年6月にポーランド出身のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が故国ポーランドを訪れ、国民に熱狂的に迎えられた。これがポーランドの民主化運動、ひいては東欧全体の民主化運動に決定的な役割を果たすことになった。1980年9月17日には独立自主管理労働組合「連帯」が結成された。
[編集] 民主化から現在
1989年、円卓会議を経て民主化が完全に実現し、自由選挙が行われ、社会主義政権は下野した。
1990年11月14日には統一ドイツとの間で国境線を最終確認する条約が交わされ(旧西ドイツは、旧東ドイツとポーランドが1950年7月6日に交わした国境線画定条約の効力を認めていなかった)、ドイツとの領土問題は終了した。
1993年、第二次大戦からポーランドに駐留していたロシア軍(旧ソ連軍)、ポーランドから全面撤退。
1997年には憲法の大幅な改正が行われ、行政権が大統領から首相へ大幅に委譲され、首相が政治の実権を握ることとなった。
2005年、欧州連合(EU)の権限拡大に懐疑的で、経済における自国民の利益擁護と、共産主義時代から引き継がれたシステムや人事の完全撤廃を掲げた、高齢者、低学歴層、小規模農家、国営大企業の経営者や従業員からの支持の強いキリスト教民主主義のカトリック系保守主義政党「法と正義」が総選挙で勝利し、農村型の大衆主義政党「自衛」、カトリックのレデンプトール会系の国民保守主義の小政党「ポーランド家族同盟」とともに保守・大衆主義連立政権を発足させた。
同時に行われた大統領選挙では最大のライバルであるドナルド・トゥスク(「市民プラットフォーム」)との間で決選投票を行った、レフ・カチンスキ(「法と正義」)が当選した。
しかしヤロスワフ・カチンスキ率いる連立政権は政治路線を巡ってなかなか足並みがそろわず、政権運営が難航するとともに、国際社会においても欧州連合やロシアと軋轢を起こした。その後連立政党「自衛」の党首アンジェイ・レッペルの収賄疑惑がカチンスキ首相に伝えられると、首相は政権維持を惜しまず2007年9月7日に議会を解散する。
この解散を受けて2007年10月21日に行われた総選挙では、欧州連合(EU)との関係強化、ユーロ導入に積極的で若者、高学歴層、商工民、新興企業の経営者や従業員からの支持が強い都市型中道右派政党「市民プラットフォーム」が勝利を収める。
一方で、大きく議席数が変化することが少ないと言われるドント方式の比例代表制の選挙にもかかわらず、それまでの政権運営に失望した有権者によって「法と正義」は大幅に議席を失ってしまう。また、連立政権に参加すると急速に有権者の支持を失っていった「自衛」と「ポーランド家族同盟」といった国民保守主義・大衆主義的な小政党は、この2007年選挙で議会における全ての議席を喪失した。
この選挙の結果、ポーランド議会(セイム)の会派は議席の多い順に、
- 都市型中道右派政党の「市民プラットフォーム」(209議席)
- キリスト教民主主義の保守主義政党の「法と正義」(166)
- 中道左派と中道の政党連合「左翼と民主」(53)
- 農村型中道右派政党の「ポーランド国民党」(31)
- ドイツ民族政党の「ドイツ少数民族」(1)
と、整理された。
最大政党の「市民プラットフォーム」の議席は過半数(231議席)に満たなかったため、中規模専業農家の支持する農村型中道右派政党「ポーランド国民党」と連立政権を発足。首相は「市民プラットフォーム」の若い党首ドナルド・トゥスクが就任。
2010年4月10日、「カティンの森事件」70周年の追悼式典に出席するため向かったレフ・カチンスキ大統領夫妻、それに94人の政府高官の代表団は、ロシア西部のスモレンスク郊外で発生した政府専用機墜落事故で死亡した。
この事故を受けて、ポーランド下院(セイム)議長で「市民プラットフォーム」所属のブロニスワフ・コモロフスキが憲法に従い大統領代行に就任。ポーランド大統領選挙が6月に急遽行われることになった。
[編集] 西欧への回帰-欧州連合とシェンゲン協定
2004年5月1日、ポーランドは欧州連合(EU)に加盟した。
2007年12月21日には国境審査が完全に撤廃されるシェンゲン協定に加盟し、他のシェンゲン協定加盟諸国とポーランドの間での陸路での国境審査が撤廃された。2008年3月30日には空路での国境審査が撤廃され、これで他のシェンゲン協定加盟諸国とポーランドの間でのすべての国境審査が撤廃されたことになる。
現在では、ポーランド人ならばパスポートなしでシェンゲン協定加盟国同士の往来が可能であり、シェンゲン協定加盟国に一度入国した旅行客はどのシェンゲン協定加盟国からでも国境審査なしでポーランドに自由に出入国をすることができる。
[編集] 政治
詳細は「ポーランドの政治」を参照
政治体制は共和制。国家元首は大統領(任期5年)であり、直接投票によって選出される。かつては大きな政治権力を託されていたが、1997年の憲法改正により政治の実権は首相に移り、現在は外交の場で象徴的に出席する程度である。下院で可決した法案の拒否権があるが、下院が再度可決した場合にはその法案は成立する。軍の最高司令官でもあるが、これも象徴的な役職にすぎない。
行政は首相が統率する閣僚会議(内閣)が担う。議会の下院に当たるセイム (sejm) の大多数の連合から、首相の提案に基づき大統領が閣僚を指名する。首相は強大な政治的権力を有している。現在の首相はドナルド・トゥスク。
立法は二院制議会(Zgromadzenie Narodowe)によって行われる。
- 下院(セイム、Sejm)
- 定数460名、比例代表制。議席獲得には全国投票の合計で政党が5%以上、選挙委員会(政党連合)は8%以上の得票が必要。少数民族の大半を占めるドイツ系住民の民族優先枠として、ドイツ民族政党は最高2議席まではこの最低得票率ルールから除外される(ドイツ民族政党は前回の総選挙で獲得票数が少なかったため、現在は1議席のみ確保している)。セイムは日本の衆議院に相当し、上院より優先される。
- 各党の議席数(定数430)
-
- 市民プラットフォーム(Platforma Obywatelska, PO) - 209
- 法と正義(Prawo i Sprawiedliwość, PiS) - 166
- 左翼と民主(Lewica i Demokraci, LiD) - 53
- ポーランド国民党(Polskie Stronnictwo Ludowe, PSL) - 31
- ドイツ少数民族(Mniejszość Niemiecka, MN) - 1
- 上院(セナト、Senat)
- 定数100名、中選挙区制。
- 各党の議席数(定数100)
-
- 市民プラットフォーム(Platforma Obywatelska, PO) - 60
- 法と正義(Prawo i Sprawiedliwość, PiS) - 39
- 無所属 - 1
カチンスキ大統領の飛行機事故死で大統領選挙の決選投票が2010年7月4日行われた。中道右派「市民プラットフォーム」のブロニスワフ・コモロフスキ下院議長が、故大統領の兄で保守政党「法と正義」のヤロスワフ・カチンスキ前首相を破り当選した。就任する8月11日までは後任の下院議長のグジェゴシュ・スヘティナが大統領代行を務める。
[編集] 国際関係
国際連合(UN)、ヨーロッパ連合(EU)、シェンゲン協定、シェンゲン情報システム(SIS)、北大西洋条約機構(NATO)、経済協力開発機構(OECD)、世界貿易機関(WTO)、欧州安全保障協力機構(OSCE)、欧州電気標準化委員会(CENELEC)に加盟している。
中欧の大国であり、ヨーロッパの東西・南北双方の中央に位置し、バルト海の南岸という要衝にあることから、ヴァイマール三角連合(Weimar Triangle)、ヴィシェグラード・グループ(V4)、環バルト海諸国評議会(CBSS)、中欧イニシアティヴ(CEI)、といった地域国際機関にも加盟している。
[編集] 軍隊
詳細はポーランド軍を参照
ポーランド軍は
- ポーランド陸軍 (Wojska Lądowe)
- ポーランド海軍 (Marynarka Wojenna)
- ポーランド空軍 (Siły Powietrzne)
- ポーランド特別軍 (Wojska Specjalne)
- ポーランド憲兵(Żandarmeria Wojskowa)
の4軍種と憲兵隊の合計5グループから構成され、4軍種では常時約10万人が活動し、予備役は約24万人。国防省が統括し、憲法で規定された最高司令官はポーランド大統領である。
このうちポーランド特別軍は機動的活動を主要任務とする軍で、作戦機動部隊(GROM)、第1奇襲部隊(1 PSK)、海兵隊(Formoza)、特別兵站部隊の4つから構成される。
徴兵制は廃止され、志願制が導入されている。これによってコンパクトながら高度な専門知識と技術を持つ国軍を作り上げることを目指している。
2009年の予算は118億ドルでこれは世界第19位、国内総生産(GDP)の2%弱を占める。1989年の民主化後も、旧ソ連から購入していた装備を引き継いだが、自国を含む北大西洋条約機構(NATO)同盟国で製造される最新装備への完全転換を急いでいる。
[編集] 地方行政区分
詳細は「ポーランドの地方行政区画」を参照
1999年に行われた県 (województwo) の大統合によって、ポーランドではそれまであった49県が16県にまでまとめられた。県の下位自治体として郡 (powiat) が合計373、グミナと呼ばれる地方自治体基礎組織 (gmina) が合計2489ある。
(アルファベット順)
- ドルヌィ・シロンスク県
- クヤヴィ・ポモージェ県
- ルブリン県
- ルブシュ県
- ウッチ県
- マウォポルスカ県
- マゾフシェ県
- オポーレ県
- ポトカルパツキ県
- ポドラシェ県
- ポモージェ県
- シロンスク県
- シフィェンティクシシュ県
- ヴァルミア・マズールィ県
- ヴィエルコポルスカ県
- 西ポモージェ県
[編集] 主要都市
| 都市 | 県 | 人口 | |
|---|---|---|---|
| 1 | ワルシャワ (Warszawa) | マゾフシェ県 | 1 710 055 |
| 2 | クラクフ (Kraków) | マウォポルスカ県 | 754 624 |
| 3 | ウッチ (Łódź) | ウッチ県 | 747 152 |
| 4 | ヴロツワフ (Wrocław) | ドルヌィ・シロンスク県 | 633,000 |
| 5 | ポズナン (Poznań) | ヴィエルコポルスカ県 | 556 022 |
(アルファベット順)
- ビャウィストック (Białystok) - ポーランド北東部の町。ベラルーシに近い
- ビェルスコ=ビャワ (Bielsko-Biała)
- ブィドゴシュチュ (Bydgoszcz)
- チェンストホーヴァ (Częstochowa) - 「黒い聖母」のあるヤスナ・グラ修道院が有名。
- グダニスク (Gdańsk) - 北部の港町。独立自主管理労働組合「連帯」発祥の地。ドイツ語名のダンツィヒ (Danzig)でも知られる。第二次大戦勃発の地・ヴェステルプラッテが近い。
- グディニャ (Gdynia) - ポーランド最大の港湾施設のある港町。
- グニェズノ(Gniezno) - ポーランドの大司教座がある。
- ゴジュフ・ヴィエルコポルスキ (Gorzów Wielkopolski)
- カトヴィツェ (Katowice)
- キェルツェ (Kielce)
- ルブリン (Lublin)
- オルシュティン (Olsztyn)
- オポーレ (Opole)
- プウォツク(Płock)
- ヤヴォジュノ (Jaworzno)
- ソポト(Sopot)
- ジェシュフ (Rzeszów)
- シュチェチン (Szczecin)
- タルヌフ(Tarnów)
- トルン (Toruń)
- ザコパネ(Zakopane) - ポーランドでもっとも大きな山岳リゾート
- ザモシチ(Zamość)
- ジェロナ・グラ (Zielona Góra)
- ジェシュフ (Rzeszów) - ポーランドの航空産業の中心地
[編集] 地理
詳細は「ポーランドの地理」を参照
西でドイツ、南でチェコとスロヴァキア、東でウクライナ、ベラルーシ、リトアニアと接していて、北東ではロシア(カリーニングラード)とも国境を接している。北はバルト海 (Morze Bałtyckie) に面している。
南部を除き国土のほとんどが北ヨーロッパ平野であり、全体が非常にゆるやかな丘陵地帯となっていて独特の景観を有する。平均高度は173 mである。南部は山岳地帯で、タトラ山脈にはポーランドで最も高いリシ山(標高2499 m)がある。南部の国境近くにはカルパート山脈(タトラ山脈を含む)やスデート山地(ポーランド語およびチェコ語でスデーティ (Sudety)、ベスキド山地を含む)がある。 深い森が多く国立公園や県立公園として維持管理されている。東北部からベラルーシにかけて広がる「ビャウォヴィエジャの森」は「ヨーロッパ最後の原生林」とされる、北部ヨーロッパには珍しく全体に広葉樹が生い繁る巨大な森で、ヨーロッパバイソン(ポーランド語で「ジュブル」)やヘラジカ(ポーランド語で「ウォシ」)をはじめとした多数の大型野生動物が生息する。 ポーランドにある9300もの湖のうち大きなもののほとんどは北部と中西部に集中している。北東部、北西部、中東部、中西部、南西部には特に湖が集中する湖水地方があり、美しい景観を有する。また湿原が特に多く、そのうち最大のものは「ヴィェブジャ大湿原」で、釧路湿原の10倍以上の面積がある。これらの湿原は国立公園や県立公園として維持管理されている。多くの水鳥が生息する。
西南部にはヨーロッパ最大の砂漠がある。
河川は以下の通り
- ヴィスワ川(Wisła)
- オドラ川(Odra)(オーデル川)
- ヴァルタ川(Warta)
- ブク川(Bug)
- ナレフ川(Narew)
- サン川(San)
- ノテチ川(Noteć)
- ピリツァ川(Pilica)
- ヴィェプシュ川(Wieprz)
- ブブル川(Bóbr)
- ウィナ川(Łyna)
- ヌィサ・ウジツカ川/ナイセ川(Nysa Łużycka)
- フクラ川(Wkra)
- ドゥナイェツ川(Dunajec)
- ブルダ川(Brda)
- プロスナ川(Prosna)
- ドゥルフェンツァ川(Drwęca)
- ヴィスウォク川(Wisłok)
- フタ/チャルナ・フタ川(Wda/Czarna Wda)
- ドラヴァ川(Drawa)
- ヌィサ・クウォヅカ川(Nysa Kłodzka)
- ポプラト川(Poprad)
- パスウェンカ川(Pasłęka)
- レガ川(Rega)
- ブズラ川(Bzura)
- ヴィスウォカ川(Wisłoka)
- オブラ川(Obra)
- ビェブジャ川(Biebrza)
- ニーダ川(Nida)
[編集] 地質
ポーランドの地質構造は、6000万年前に起きたヨーロッパ大陸とアフリカ大陸の衝突と、北ヨーロッパの第四氷期によって形成された。このときスデート山地とカルパティア山脈が形作られている。北部ポーランドのモレーンの景観は主に砂とロームから成る土壌によるものである。氷河期に形成された南部の河川の谷は黄土を含んでいる。クラクフ=チェンストホヴァ高原、ピェニヌィ山地、西タトラ山地は石灰岩で構成される。高タトラ山地、ベスキド山地、カルコノシェ山地は花崗岩と玄武岩で構成される。クラクフ=チェンストホヴァ高原は地球上で最も古い山地帯の1つである。
[編集] 気候
バルト海に面した北西部は温帯気候であるが、東部や南部の山岳地帯では、冬季の間は河川が凍結する亜寒帯気候となる。降水量は平均しており、季節による変動が少ない。
[編集] 経済
詳細は「ポーランドの経済」を参照
[編集] 概況
[編集] 世界金融危機の余波
ポーランド経済は若年人口の多さに支えられて、近年は毎年4~6%前後の高成長を見せていたが、世界的な金融危機の余波を受けたため、2009年の成長率は、欧州委員会(EC)の予測では-1.4%、国際通貨基金(IMF)の予測では-0.7%、欧州復興開発銀行(EBRD)の予測では0%、ロイター通信調査のポーランド国内外の民間金融機関の平均的な予測では+0.8%、ポーランド財務省の予測では+1%前後とされていた。
ヨーロッパ域内各国については軒並み大幅なマイナス成長が見込まれているが、GDPに対する対外債務残高や短期対外債務残高、金融機関の不良債権、個人の外貨建てローン残高が少なく(家計向けローンに占める外貨建のシェアは約40%、家計向け外貨建てローンは名目GDPの15%未満[4])、国内人口が大きいため輸出依存度が比較的低く国内需要が大きいという特徴があるポーランドは、通貨ズウォティの急落によって輸出競争力も回復してこの景気後退をうまく切り抜けると予想されており、ヨーロッパの国々のうちではもっとも高い数値の成長率予測をあらゆる調査で得ている国の一つであった。
なお、上記の機関のうち国際通貨基金(IMF)はポーランドをはじめとした中東欧諸国についての外貨準備高に対する対外債務残高の割合を2009年4月に調査発表した際に、対外債務残高を二重に数えて過大に見積もってしまうという信じられないほどの重大ミスをしており、現在は急遽これらの数値の改正作業に入っている[5]。この改正の数値が発表されることよってポーランドの信用はさらに大きく回復するものと予想され、2009年4月にIMFが-0.7%とした経済成長率予測も上方修正されることが確実となった。IMFがこの誤りについて責任者の謝罪や関係者の処分などの引責を行うかどうかは不明。
[編集] 2009年の結果
その後ポーランドの2009年成長率については、経済協力開発機構(OECD)の発表によると、大方の予想をはるかに上回る1.7%と判明(のちに1.8%へ上方修正)し、この年の欧州連合(EU)加盟国でプラス成長率を達成した唯一の国であることが明らかになった。OECD加盟国においても、ポーランドの他にプラス成長率を達成したのは韓国(0.2%)とオーストラリア(1.3%)の2カ国のみであり、2009年のポーランドはOECD加盟国最高の成長率を叩き出したことになる。中央銀行であるポーランド国立銀行が世界金融危機の前の世界金融バブルの時代の非常に早い時期(2001年ごろ)には既にバブルの到来を察知し、それ以来市中銀行に対して様々な貸し出し規制策を導入していた[4]ことが評価されている。OECDではポーランドの今後の成長率を2010年は3.0%程度、2011年は3.6%程度と見積もっている[5]。国際通貨基金(IMF)の見積もりでは2010年は2.7%程度、2011年は3.2%程度。
[編集] 展望
2004年のEU加盟当初は、ポーランドはEU内でも西欧諸国より低い賃金水準を持つことから、EU内の「工場」としての投資を受けていた。さらに、現在ではその高い教育水準を生かして研究開発施設をポーランドに設けようとする企業も多い。
また、EU加盟時に、ポーランドから多数の労働者がEU諸国に出稼ぎに出かけた。初めは、単純労働者としての雇用が先行したが、その後はホワイトカラーとしての雇用も増え、財を成すものも表れた。これまで本国経済の堅調に支えられてポーランドへ帰国する者が徐々に増加していたが、昨今の世界的な金融危機の余波で国内外の経済情勢が激変しているため、ポーランド本国でも就職の機会が少ないのではないか、職を得ても収入が低いのではないか、あるいはポーランド国内であっても自分の出身地とは離れた地方でないと求人していないのではないか、と考えて帰国をためらう動きも出てきた[6]。しかし、ポーランド政府は国内産業の長期的な発展を確実にするため道路や通信などといったインフラの整備を急ピッチで進めているため[7]、外国へ出ている出稼ぎのうち未熟練労働者の祖国へのUターンを積極的に奨励している。ポーランドにおけるインフラ整備や教育など経済発展の基礎作り事業は、規模が巨大であるにもかかわらず資金リスクがないのが特徴である。これは政府や民間からの資金調達に加えて、EUからインフラ整備や教育などポーランド事業を支援するために膨大な補助金が下りているからである。政府は2010年度より緊縮財政を行っているが、これは主に国営企業の民営化による新規株式公開(IPO)で多くを賄うことになっており、歳出規模を削減するというわけではない。また、インフラ整備プロジェクトは主にEUなどから資金が確定して拠出されている。これまで国内で9万のプロジェクトに86億ユーロの支援が行われ、13000もの一般企業、数千キロの道路建設、鉄道路線や各地の主要駅の改修や建て替え、無数の歴史的建造物や遺跡の整備といった事業がEUから潤沢な資金援助を受けている。また、61万人のポーランド人学生、260万人の一般のポーランド人がEU資金の恩恵を受けている。2007年から2013年にかけての間でポーランドがEUから補助金を受け取る事業の総数は、ドイツに次いでヨーロッパ第2位である[8]。このほかにEUからは農業補助金や行政補助金などがポーランドへ渡されている。ポーランド政府が、「ポーランドへ帰ろう!」キャンペーンを張って国外にいるポーランド人の帰国を熱心に促しているのは、これらの大事業のために膨大な人手が要るためである[9]。
[編集] 企業家育成
ECER-Banque Populaireが18カ国37都市の4500人のCEOを含む17万人の企業家を対象に調査したところ、欧州でもっともビジネスに適した都市の第3位にワルシャワがランクインした(1位はフランクフルト、2位はマルメ、4位はロンドン、5位はブリュッセル)。この調査では各都市の企業家精神育成、起業支援、経営支援、私的な金融体制、公的な金融体制、助成金、不動産、生活の質、道路、通信インフラ、などの項目で調査された。ワルシャワは全般的に高得点を挙げたが、特に起業家への支援体制が優れていると評価され、企業家精神育成部門(経営相談、経営者組織、ウェブ、メディア)で6位、起業した経営者に対する支援部門(法律相談、税務相談、業務支援)で4位となった。ワルシャワについて評価が最も低かったのは環境部門で、評価の対象となった全37都市のうち16位であった。ポーランドでは現在のドナルド・トゥスク政権と与党「市民プラットフォーム」の方針として国を挙げて特に起業支援と中小企業の育成に力を注いでおり、その数は国内全企業の半分で、全就労者の3分の2を雇用し、GDPの80%を占めている。[6][7]
[編集] 税制
法人税は19%である。所得税は非常に簡単な2段階の累進課税方式で、課税所得に応じて18%あるいは32%となっている。付加価値税は22%を基本税率とした複数税率で、7%(一般の食品、医薬品、建築資材、観光サービス等)、3%(一部の食品)、0%(書籍)もある。
[編集] 工業
先進国として、EU内の「工場」として、非常に多岐にわたる第二次産業が行われている。特にパーソナルコンピュータやテレビなどの情報家電の生産は盛んで、ヨーロッパのテレビ生産の3割をポーランドが占めている。乗用車、トラック、バス、路面電車、鉄道車両などの生産も盛んで、ソラリス、PESA、Newagなどといったポーランド地場企業が積極的に外国へ進出している。
[編集] 農業
ポーランドの農業は伝統的に大規模化されておらず、約90%が個人農家であり、社会主義時代にも国有化・集団化の動きは無かった。国土面積のうち、農地の占める面積は42.1%である。
このような小規模農家はコスト効率が悪い反面、近年のオーガニックブームなどで、付加価値の高い作物を作るのに適しており、高品質の有機栽培作物が他のヨーロッパ諸国に盛んに輸出されている。
特筆すべき生産物としては、世界2位の生産量をほこるらい麦や、それぞれ高いシェアを持つフランス向けエスカルゴ、日本向け馬肉および羽毛などがある。
[編集] 鉱業
ポーランドは鉱物資源が豊富であり、石炭を中心として多種多様の非鉄金属に恵まれている。石炭の生産量は世界第8位である。
ヨーロッパではロシアに次いで豊富な石炭や、自国の消費量の2/3をまかなう天然ガスなどを有する。他にも重要な鉱物資源において世界シェアを有している。特に天然ガスについてはポーランド国内消費のじつに200年分を超える埋蔵量があると判明したシェールガスが注目されており、国内外の複数のエネルギー企業が試掘を申請している。また、国内に豊富に存在する石炭のガス化技術(石炭ガス)の研究開発にも熱心に取り組んでいる。また、西南部ドルヌィ・シロンスク県のクレトノ鉱山などではウランを豊富に埋蔵しており国内の原子力利用を長期的に賄える。ポーランド国内ではこれまで原子力発電は行われていなかったが、近年は原子力発電計画が具体化しつつある。
[編集] 観光
それぞれの観光地については「ポーランドの観光地」を参照
1989年12月25日までポーランド全土は冷戦体制のもとで東側諸国の重要な軍事拠点となり外国人に門戸が閉ざされていた。冷戦が終わってポーランドに駐留していたソ連軍が全面撤退してから約20年たち、現在では国内観光は完全に自由化され、「ヨーロッパのハートランド」[8]として、欧米諸国ではバカンス客からバックパッカー客まで幅広い層の観光客の間で人気を得ている。2007年12月21日にはシェンゲン協定に加盟し、シェンゲン協定加盟国すべてとの往来がパスポートなしで可能となった。加盟国の間では国境のどこからでも出入りが自由となっている。 ポーランドには歴史的価値の高い街、建物、施設、景観が数多くある。とりわけ古都クラクフの旧市街にある中央広場(Rynek Głowny)は「世界で最も美しい広場」と評価されている[9]。
前述のとおり世界遺産の数は全部で13件あり(中東欧地域で最多)、さらに4件が暫定リストに登録されている。また自然環境もよく保存され、国立公園や県立公園が多数あって保護されており、ユネスコ生物圏保護区が9か所ある。
また、国内のあらゆる地方に無数に存在する貴族の宮殿や城は近年次々とリフォームされ美しいホテルとして営業しており、これら「宮殿ホテル」や「城館ホテル」に宿泊しても西欧諸国よりはるかに割安に贅沢な旅行ができる。また、農家に滞在して農業体験をしたりゆっくりと一日を過ごしたりする「アグロツーリズム」も近年は盛んである。
[編集] 国民
2002年の国勢調査によると、人口は約3698万人で、そのうち約97%がポーランド人である。かつては多民族国家であったが、第二次世界大戦当時のポツダム会談の結果、領土全体が地理的に西側へ移動し、現在のようなほぼ単一民族国家となった。その他の少数派としては、主に東部に在住するウクライナ人、リトアニア人、ベラルーシ人、主に旧ドイツ領の西部に在住するドイツ人、ユダヤ人がいる。少数民族のなかではドイツ人が圧倒的に多く、国会の下院(セイム)において最高2議席の民族優先枠が設けられている(ただし前回の総選挙では獲得投票が少なかったため、現在は1議席のみ確保)。
[編集] 言語
詳細は「ポーランドの言語」を参照
国語はポーランド語。ポーランド語は印欧語のスラヴ語派西スラヴ語群に属する言語で、チェコ語、スロヴァキア語、上ソルブ語、下ソルブ語などと共通のグループに属し、そのうち、カシューブ語などと共にレヒト諸語(レフ諸語)を構成する。表記はロシア等で用いられるキリル文字ではなく、ラテン式アルファベットでなされる。
冷戦時代に東側に組み込まれたため、現在でも多くの40代以上のポーランド人はロシア語を解すが、若い世代においては英語が圧倒的な人気を獲得している。英語は小学校1年からの履修科目となっている。また、第二外国語としてドイツ語やフランス語を学ぶ学生も多い。ロシア語の履修者数も最近徐々に回復してきた。
近年は日本語ブームであり国立大学の日本学科(ワルシャワ大学、クラクフ大学、ポズナニ大学)の入学および卒業は非常に狭き門となっている。そのほか、グダニスク大学など国内の多くの国立・私立の大学に日本語の講座があり選択科目として履修できる。
[編集] 宗教
詳細は「ポーランドの宗教」を参照
米国CIAの調査によると、国民の約95%がカトリック教徒であり、うち75%が敬虔な信者である。このように、ポーランド人の価値観や日常生活にカトリックの信仰が根付いており、ポーランド・カトリック教会が存在する。史上初のポーランド出身の教皇ヨハネ・パウロ二世は絶大な尊敬を集めた。そのほか、プロテスタント、正教会、ユダヤ教会、イスラム教(中世からの伝統を持つリプカ・タタール人)、浄土真宗やチベット仏教をはじめとした仏教の信者もわずかながら存在する。
[編集] 教育
詳細は「ポーランドの教育」を参照
1999年9月1日より、従来の社会主義時代からの8・4制を改め、6・3・3制に移行した。
[編集] 若者の国
経済協力開発機構(OCED)加盟国に共通する問題としてポーランドにも少子化の傾向がある。その反面、若者が非常に多いのもまたポーランドの特徴で、人口の50%が35歳以下、35%が25歳以下、20%が15歳以下である。また学生全体の87%が外国語を習得している[10]。高等教育にも熱心な国民性で、大学進学率は約70%にものぼり[11]、19歳から24歳までの人口全体の55%が学生である[12]。学生の多くはインターンやアルバイトなどの仕事と学生生活を掛け持ちしている。学生の間では日本のマンガの人気が高い[13]。一方、子供の貧困率が約20%(日本は約15%)で、これはアメリカ合衆国やメキシコと同程度のため、これを引き下げることがポーランド政府の社会政策における最優先課題の一つとされている。
[編集] ポーランド人の苗字
ポーランド人の苗字は非常に多く、総数40万以上にのぼり[10]、世界的にもユニークといわれる。ポーランドの人口は3800万人程度であるから、同じ苗字を持つ人の数は平均すると100人を下回ることになる。NowakやKowalski(女性はKowalska)といった苗字を持つ人が最も多いとされるが、それでも絶対数は非常に少なく、これらの苗字を持つ人に出会うことは稀である。
ポーランド語の姓には-ski(/~スキ、女性は-ska/~スカ)という語尾が多い。この-skiというのは名詞を形容詞のように「~の」という意味で使う場合に付く接尾辞である。英語の-ish(Polandに対するPolish)のドイツ語の-isch(Japanに対するJapanisch)などと同様、インド・ヨーロッパ語族の言語がもともと共有する用法。たとえばWiśnia(意味は「桜」)からWiśniow(意味は「桜村」)という村名が派生し、そこからWiśniewski(意味は「桜村の~」)という意味の姓が生まれる。Jan Wiśniewskiさんならば、意味は「桜村のジョンさん(Janは英語のJohn)」となる。
また、アメリカ合衆国など英語圏の国家に移住すると、しばしば苗字をそのまま英語に翻訳したものを登録して使うようになる(NowakをNewman、KrawczykをTaylorに改名など)。その結果、現地の社会に同化していく。
苗字人口上位20(2002年)は以下のとおり。
- Nowak (ノヴァク; 203,506人; 英語の"Newman")
- Kowalski (コヴァルスキ; 139,719人; 英語の"Smith")
- Wiśniewski (ヴィシニェフスキ; 109,855人; 英語の"Cherry")
- Wójcik (ヴイチク; 99,509人; 原義は「戦士」)
- Kowalczyk (コヴァルチュィク; 97,796人, 原義は「"Smith"の息子」)
- Kamiński (カミニスキ; 94,499人; 英語の"Stone")
- Lewandowski (レヴァンドフスキ; 92,449人; 英語の"Levantine")
- Zieliński (ジェリニスキ; 91,043人; 英語の"Green")
- Szymański (シュィマニスキ; 89,091人; 英語の"Simon")
- Woźniak (ヴォシニャク; 88,039人; 英語の"Cart")
- Dąbrowski (ドンブロフスキ; 86,132人; 英語の"Oak ")
- Kozłowski (コズウォフスキ; 75,962人; 原義は「雄ヤギ」)
- Jankowski (ヤンコフスキ; 68,514人; 英語の"John")
- Mazur (マズル; 66,773人; 原義は「マズーリ地方」)
- Wojciechowski (ヴォイチェホフスキ; 66,361人; 原義は聖アダルベルトの本名Wojciech)
- Kwiatkowski (クフャトコフスキ; 66,017人; 英語の"Flower")
- Krawczyk (クラフチュィク; 64,048人; 原義は「"Taylor"の息子」)
- Kaczmarek (カチュマレク; 61,816人; 英語の"Inn")
- Piotrowski (ピョトロフスキ; 61,380人; 英語の"Peter")
- Bagiński (バギニスキ; 60,492人; 英語の"Master")
[編集] ポーランドへの移民労働者
公式な統計では2009年には12万人のウクライナ人がポーランドで就業登録している。しかしこれは氷山の一角に過ぎず、後述のように正規であっても未登録だという場合もあるので正確な規模はわからない。ワルシャワ大学の調査によるとポーランド国内最大の移民グループはウクライナ人女性で、彼女たちに家計の全てを頼る家庭がウクライナには多いという。彼女たちのほとんどは家政婦や清掃婦、農産物の収穫などの単純労働に就いている。2007年にはポーランドの家庭のじつに15%がウクライナ女性を正規のメイドとして雇ったという。ウクライナ、ロシア、ベラルーシ、モルドバの4カ国の国民は6か月を上限として、ポーランド政府からの労働許可がなくてもポーランド国内において無条件で就業することが許されている[14]。
[編集] 文化
[編集] 食文化
詳細は「ポーランドの食文化」を参照
ポーランド料理は、基本的に家庭料理である。しかし、歴史的に多くの民族が集う地域であったため、周辺のさまざまな民族の食習慣を取り入れてポーランド文化に同化しており、伝統料理のバラエティは非常に豊かである。
過去には、ポーランドでは一日に4回の食事をとっていたが、近年は3回の家庭が多い。基本的には昼食を正餐とし朝食と夕食は軽く済ますのが伝統だが、都市部では男女とも外に出て働くことが多いことから、昼食を軽くし夕食を正餐とする場合も多くなっている。
[編集] 文学
詳細は「ポーランド文学」を参照
「ポーランド文学」といえば一般にポーランド語文学を指すが、ポーランドの文学の伝統はかつてのポーランド=リトアニア共和国における多民族社会を反映して、ポーランド語だけでなく、ラテン語、イディッシュ語、リトアニア語、ウクライナ語、ベラルーシ語、ドイツ語、エスペラント語といった、多くの言語による多様性を特徴としている。ここでは主にポーランド語の文学について述べる。
中世ポーランドにおいては当初ラテン語による記述が主流であった。ポーランド人によってラテン語で書かれた本で、現存するもののうち最も古いものは13世紀の歴史家でクラクフ司教でもあったヴィンツェンティ・カドゥウベックによる年代記である。ポーランド語による記述で現存するもののうち最も古いものは13世紀半ばにドイツ人修道院長によって書かれたラテン語の年代記に表れる、12世紀のヴロツワフ公ボレスワフ1世が后に掛けたという「ぼくが粉を引くから、きみは休みなさい( ”Day ut ia pobrusa, a ti poziwai” )。」といういたわりの言葉である。このころから古いポーランド語による記述が多く現れるようになった。
15世紀にはいるとカトリック司祭で年代記作者でもあるヤン・ドゥウゴシュの文筆活動がポーランドにおける文学の発展に大きく寄与した。1470年ごろにはポーランドで最も初期の複数の印刷工場が業務を始めている。これに続いてルネサンス時代がポーランドでも始まり、以後は書き言葉としてもポーランド語がポーランドにおける主流となった。この時代にポーランド語文学の発展に最も貢献したのは詩人のヤン・コハノフスキで彼の作った多くの詩がポーランド語の標準的な語法と認識されるようになった。コハノフスキは19世紀以前のスラヴ人世界における最も偉大なる詩人であると評価されている[11]。
つづくバロック時代や啓蒙時代を通じてポーランド語文学は発展したが、 ポーランド分割によってポーランド=リトアニア共和国が消滅した後は他国支配に対するポーランド独立運動の意識と結びついて非常に独特なロマン派文学の発展を見ることになる。この「ポーランド・ロマン派」の代表とされるのがアダム・ミツキェヴィチである。ポーランドの国民的叙事詩「パン・タデウシュ」は近現代ポーランドの苦難の時代にも常に愛読され、21世紀に入りアンジェイ・ワイダによって『パン・タデウシュ物語』(邦題)として映画化された。
ポーランド立憲王国と旧リトアニア大公国の各地域で行われた、旧ポーランド=リトアニア共和国復活運動である対ロシア帝国1月蜂起が1864年にロシア軍によって残酷に鎮圧されるとポーランドにおけるロマン派の流れは衰退し、実証主義の時代となる。ポーランド実証主義文学者のうちでもっとも広く知られているのは『クオ・ヴァディス』(のちにマーヴィン・ルロイ監督によってアメリカのハリウッドで同名映画化)の作者ヘンリク・シェンキェヴィチと『農民』の作者ヴワディスワフ・レイモントという、2人のノーベル文学賞受賞者である。またこの時代は、当時のポーランド社会にたくさん存在したユダヤ人コミュニティーを中心にイディッシュ語文学も多く発表されるようになり、ブルーノ・シュルツやイツホク・レイブシュ・ペレツなどは多くの人気作品を遺した。
一方、このポーランドの苦難の時代に多くのポーランド人が海外で生活するようになったが、没落シュラフタ(ポーランド貴族)のテオドル・ユゼフ=コンラート・コジェニョフスキは船乗りとしての生活のあとイギリスに定住して 英語で小説を書いて次々と発表し、現代英国文学の代表的文豪の一人として、ジョセフ・コンラッドの筆名によって世界中で愛されている。コンラッドの作品の多くはアメリカやイギリスで映画化されているが、たとえば『闇の奥』と『決闘者たち』は、それぞれフランシス・コッポラ監督の映画『地獄の黙示録』、リドリー・スコット監督の『デュエリスト/決闘者』の原作である。
第二次世界大戦を経て共産主義時代から民主化までの抑圧の時代は文学が反体制運動の主流となる。体制側の体裁をとった「若きポーランド」と呼ばれる文学運動も巧妙な反体制活動の側面があった。この時代の代表に詩人のチェスワフ・ミウォシュと、同じく詩人で日本の安藤広重の浮世絵に触発された詩作で世界的に有名となったヴィスワヴァ・シンボルスカという2人のノーベル文学賞受賞者、さらに小説『灰とダイヤモンド』(アンジェイ・ワイダによって同名で映画化)の作者として有名なイェジ・アンジェイェフスキ、『尼僧ヨアンナ』 (イェジー・カヴァレロヴィチ監督によって同名映画化)の作者として知られるヤロスワフ・イヴァシュキェヴィッチなどがいる。また空想科学文学(サイエンス・フィクション)の分野ではスタニスワフ・レムが新地平を開き、代表作『ソラリスの陽のもとに』は『惑星ソラリス』としてソ連でアンドレイ・タルコフスキーよって、さらに『ソラリス』としてアメリカでスティーブン・ソダーバーグによってそれぞれ映画化されたことで世界的に知られている。
この時代は共産主義体制を嫌い外国へ亡命する人が続出したが、こういった人々のなかには、アメリカ合衆国に移住しそこで英語で小説を多く書いて現代アメリカ文学の前衛的存在となり、『異境(原題:Steps)』や『庭師 ただそこにいるだけの人(原題:Being There)』(ハル・アシュビー監督、ピーター・セラーズ主演で『チャンス』として映画化)など、現在でもその作品が若者を中心にカルト的人気を獲得している、ジャージ・コジンスキーとして知られるイェジ・コシンスキなどがいる。
またこの時代よりポーランド現代文学の特色であるノンフィクション文学が勃興した。その代表としては、日本でも『サッカー戦争』や『帝国』などの著作で知られ、世界中で「20世紀の最も偉大なジャーナリスト」[12][13]、「世界で最も偉大な報道記者」(独シュピーゲル紙)、「現代のヘロドトス」[14]などと評価される、リシャルト・カプシチンスキがいる。
[編集] 音楽
第二次世界大戦後のポーランド音楽の展開については「ポーランドの現代音楽」を参照
ポーランド音楽の理論的発展の最も初期は13世紀でノートルダム楽派の影響を受けており、この時代の楽譜がポーランド南部の街で発見されている。宗教音楽としては『ボグロジツァ(神の母)』という歌曲がこの時代に作られたものと推定されている。この曲はポーランド王国がリトアニア大公国やプロイセン連合と同盟してドイツ騎士団を討った1410年のグルンヴァルトの戦いでも合戦の際に歌われたと伝えられる。『ブーク・シェン・ロージ(神が生まれる)』は歴代のポーランド王が戴冠するときに演奏されたポロネーズの曲である。
16世紀になるとポーランド音楽は急速に発展した。これにはクラクフの王宮であるヴァヴェル城の宮廷音楽たちが活躍した。これらのポーランド人作曲たちの中でも異色なのは、5歳で家族とともにイタリアからポーランド王国に移住してポーランドに帰化したディオメデス・カトーである。彼は親戚を通してイタリアの最新の音楽情報を得、これをポーランド音楽に応用していったのである。王国の首都がワルシャワに移された16世紀の終わりごろより多くのイタリア人音楽家がポーランド王国にやってきて、長期滞在するあいだ社交の場に参加し、演奏会を催したり講義を行ったりした。ここでポーランドの音楽家たちはバロック音楽のスタイル、最新の楽器、通奏低音といった技法などの情報に触れ大いに刺激された。17世紀初頭からはイタリアの影響を受けてオペラが盛んに製作されるようになり、ワルシャワは音楽文化や舞台文化の一大中心地として発展していった。しかしポーランド王国の国力が急速に衰退していった17世紀の終わりごろよりポーランド音楽の多くの部分が停滞した。独自のオペラを製作した人々もいたが、多くの作曲家は当時人気のハイドンやモーツァルトのスタイルを模倣することで満足していた。しかし一方、ポロネーズなどポーランド伝統音楽を題材にした音楽の発展に関しては目覚しいものがあり、ポーランドの芸術音楽として内外に広く認識されるほどの高みに達するようになった。その作曲家の代表格がフレデリック・ショパンである。
ポーランドの民俗音楽については19世紀より曲の収集と整理が行われた。オスカル・コルベルクはポーランド文化の復興を目指して熱心に各地を周って曲を収集していった。20世紀半ばにポーランドが共産主義体制となると民俗音楽に関しても国営の音楽・舞踊団が数多く結成された。マゾフシェ音楽・舞踊団とシロンスク音楽・舞踊団は共産主義が過去のものとなった現在においても活動している。これらの団体は各地方の民俗音楽をまとめて扱うため、地方性が薄い側面があると言われるが、外国人にとってはコンサートホールでポーランドの伝統音楽に触れる良い機会を提供している。一方で現在のポーランドの各地には各コミュニティーの自発的な音楽・舞踊団が存在しており、国営音楽・舞踊団ほど大規模な演奏ではないものの、地方色豊かな音楽文化を見せてくれる。ポーランド国内の各地で民俗音楽祭が頻繁に開催され、そのような場で彼ら小規模の音楽・舞踊団が活躍している。
マズルカやポロネーズなどといったポーランドの伝統的なダンス音楽を、外国に広く紹介する役割を果たした功績はなんといってもフレデリック・ショパンに与えられるだろう。ショパンの音楽活動によってポーランド音楽はヨーロッパで大人気となった。3拍子のダンスは主に北東部で、2拍子のダンスは南部でよく見られる。ポロネーズはもともとポーランド貴族の舞踏会での演奏されるもので、ポーランド音楽を最初に知ったフランス人たちがフランス語で「ポーランド風(のダンス音楽)」ということで名づけたものであり、それはポーランドでは「ホゾーニ(Chodzony)」と呼ばれる非常にゆったりとしたリズムの絢爛豪華なダンス音楽で、これはポーランド貴族たちの舞踏会や宴会で参加者が入場する際に演奏され、このリズムに乗って貴族たちがそれぞれ男女ペアとなり腕を組んで、控え室から会場へとゆったり踊りながら入場し着席するのである。その後ポロネーズはポーランドにおいても庶民の間で人気となり、国民全体に広まっていった。
ポーランド南部の街ザコパネを中心とする山岳地方の一帯は「ポトハレ地方」と呼ばれ、ここでは19世紀よりポーランドの芸術の中心地のひとつとなった。民俗芸術だけでなく、現代音楽の先駆者として有名な作曲家のカロル・シマノフスキはザコパネに住んで、ここを拠点に音楽活動をしており、彼の家は現在でも保存されている。シマノフスキはこの地方の住民である「グラル人(「山の人」という意味)」の民俗音楽の収集や、それをモチーフとした作曲も行っている。グラル人はバルカン半島を故地とする山岳牧畜民の ヴラフ人がポーランドまで移動してきてポトハレ地方に定住し、この地方の土着のポーランド人農民たちと混ざり合ってポーランド独特の混血文化集団となっていったものである。彼らは昔からチーズケーキをお茶菓子として盛んに作る習慣があり、いわゆる現代の形のチーズケーキを生み出した人々だと言われているが、これは古代よりチーズを使った焼き菓子を作る習慣があったギリシャなどのバルカン半島南部の文化を持ち込んで、ポトハレ地方で次第に現在のチーズケーキの形にしていった。彼らは弦楽器やバグパイプを用いて盛んに音楽を演奏する習慣があり、現代ではバイオリンやチェロを多用する。また彼らはリディアンモードの音階を用い、歌うときにはこれに良く合う独特の歌唱法であるリディゾヴァニェを使う。いくつかのダンス音楽の種類があるが、中でもクシェサニィ(krzesany)は非常に早い動きを必要とするもので、また「山賊踊り」という意味のズブイニツキ(zbójnicki)はこの地方独特のダンスとして非常に有名である。
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19世紀初頭になるとポーランドのクラシック音楽のスタイルが確立された。ユゼフ・エルスナーはフレデリック・ショパンとイグナツィ・ドブジンスキを育てた。カロル・クルピンスキとスタニスワフ・モニウシュコはポーランドのオペラ音楽を発展させた。独奏の分野ではヘンリク・ヴィエニアフスキやユリウシュ・ザレンプスキが主な作曲家に挙げられる。テクラ・バダジェフスカはアマチュアながら、17歳のときにフランスの音楽雑誌に投稿した自作の曲『乙女の祈り』がフランスで大人気となり、27歳で他界するまでその後も数十曲を作曲して発表した。『乙女の祈り』は日本でもあまりに有名な曲であるが、現代のポーランドでは『乙女の祈り』はおろか、バダジェフスカの名でさえもあまり知られておらず、近年やっと少しずつその名が広まるようになった。
19世紀末から20世紀初頭の時代にはヴワディスワフ・ゼレンスキ、ミェチスワフ・カルウォヴィチ、カロル・シマノフスキは特に人気を博した。伝説のピアニストであるイグナツィ・パデレフスキは第一次大戦後に独立を回復したポーランド共和国の首相となった。ユゼフ・コフラーは十二音技法を開拓した。
第一次大戦後の時代は若い音楽家たちが芸術運動を開始し、グラジーナ・バツェヴィチ、ジグムント・ミチェルスキ、ミハウ・スピサック、タデウシュ・シェリゴフスキなどが活躍した。イグナツィ・パデレフスキは政治家としての活動に身を投じた。映画『戦場のピアニスト』の主人公として有名なヴワディスワフ・シュピルマンは大衆音楽の作曲家としても人気があり、彼の作曲した明るいジャズ調の歌謡曲『ワルシャワの赤いバス(Czerwony Autobus)』は今ではスタンダード曲としてポーランド人に最も人気のある曲の一つであり、ポーランド人にとっては第二次大戦前の、欧州で「北のパリ」として知られた美しいワルシャワの街の姿を思い起こさせるものである。
第二次大戦後の社会主義時代はタデウシュ・バイルト、ボグスワフ・シャエファー、ヴウォジミェシュ・コトンスキ、ヴィトルト・シャロネック、クシシュトフ・ペンデレツキ、ヴィトルト・ルトスワフスキ、ヴォイチェフ・キラール、カジミェシュ・セロツキ、ヘンリク=ミコワイ・グレツキ、クシシュトフ・メイヤー、パヴェウ・シマンスキ、コシェシミール・デンプスキ、ハンナ・クルエンティ、エウゲニウシュ・クナピック、パヴェウ・ミキェティンなどが活躍した。
ポーランドは社会主義の時代においても他の社会主義国に比べて情報に関しては統制が緩やかで西側自由主義陣営の音楽情報が比較的楽に入手できた。そのため1989年の東欧革命以前にもジャズやロックといった西側的な音楽文化が存在した。ロックの分野ではプログレッシブ・ロック、ヘヴィメタル、テクノポップ、ニュー・ウェイヴなどが人気となった。ヘヴィメタルではビーイマス、ヴェイダー、ディキャピテイテッド、ヘイトなど多くのバンドがこの分野で世界的な人気バンドとなっているが、特にヴェイダーは東欧革命よりはるか前の1983年からプロとして活動しておりいまだに最も人気のあるデスメタルバンドの一つである。ジャズではクシシュトフ・コメダは同国出身のロマン・ポランスキー監督の映画『ローズマリーの赤ちゃん』の映画音楽を担当したことであまりに有名である。
ポーランド人は音楽民族と呼べるほど音楽祭の好きな国民で、国や自治体、そして市民の草の根による音楽イベントが盛んに行われる。5年に一度開かれるワルシャワのショパンコンクールはもちろん、毎年夏に開かれるソポト国際音楽祭はユーロヴィジョンと並んでヨーロッパで最も大きな国際音楽祭である。
また、プシスタネック・ウッドストック(Przystanek Woodstock - 「ウッドストック・バスストップ」の意)はヨーロッパ最大の草の根主体の屋外音楽イベントで、毎年夏にヨーロッパ全土から音楽ファンが集い、その規模においてアメリカの元祖ウッドストック・フェスティバルを凌駕する勢いとなっている。大きな草の根イベントではこのほか、ヴロツワフのジミ・フェスティバル(Jimi Festival)では毎年世界中から数千人のジミー・ヘンドリックスのファンが集まり、ヴロツワフの旧市街広場で一斉に同じ曲を演奏する壮観を呈し、2009年には6300人が参加し世界で最も多い人数によるギターの合奏としてギネスブックに登録されている[15]。オポーレ国民音楽祭は主にポーランド国内各地から数多くの民俗音楽団がオポーレに集まるが、まだ共産主義であった1980年代のうちに既に民俗音楽部門のほかにロック部門とヒップホップ部門が加わって、国内アーティストの登竜門的な存在の音楽祭ともなっている[16]。2009年夏にはソポトでリヒャルト・ワーグナーの作曲した全ての曲を演奏するイベントが開かれた[17]。また国内各地の市町村レベルの自治体も毎年競うように音楽祭を催している。音楽のジャンルもクラシック、民俗音楽、大衆音楽など多岐に亘っている。また結婚披露宴では通常は生のバンドが招かれて演奏し、それにあわせて宴会の参加者が3日3晩踊り明かすのが古くからのしきたりになっており、大都市ではこれが1-2日間に短縮されたものの田舎では相変わらずこの習慣が広く行われている。
[編集] 美術
詳細は「ポーランドの美術」を参照
[編集] 映画
詳細は「ポーランドの映画」を参照
[編集] 住居
ポーランド国内の都市の中心部は中世の街並みが保存維持されているが、外縁部の風景に共通するのは旧共産圏によく見られる四角いアパート群が多いことである。これは旧体制時代に建設されたもの。戦後、人口増加の対策として間に合わせに作られたものである。こぢんまりして使い勝手はいい。しかし一方、そういった近代アパートの存在がポーランドのよき文化的伝統に対する脅威となっているとの社会学的非難がある。地区のカトリック教会がある程度人々を結びつけている。
ワルシャワなどの大都市に関しては高度成長を背景に、複数の不動産開発業者がビジネス街に超高級マンション・オフィス・ホテル複合施設を建設することになっており、今後数年の間に多数の超高層ビルが新たに出現することになっている[15]。
一方、郊外および地方では、伝統建築の、あるいは伝統建築をモチーフにした美しい一戸建てが多く建てられてきており、古い建物も順次リフォームされ、こちらでは地域のコミュニティがよく発達している。
[編集] 世界遺産
詳細は「ポーランドの世界遺産」を参照
ポーランド国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が12件ある(そのうちドイツとにまたがっているものが1件)。また、ベラルーシとにまたがって1件の自然遺産が登録されている。したがって世界遺産は合計13件となる。
そのほかに現在、世界遺産の暫定リストに4件が登録されている(そのうち1件は現在登録されている自然遺産の拡張である)。
[編集] 祝祭日・年間行事
| 日付 | 日本語表記 | 現地語表記 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 1月1日 | 元日 | Nowy Rok | 新年。ニューイヤーパーティーなどが盛大に行われる。(休) |
| 1月6日 | 3人の博士の日 | Trzech Króli | 三人の博士がイエス・キリストに会いに来たのを記念する日。 |
| 1月21日・1月22日 | おばあちゃんの日・おじいちゃんの日 | Dzień Babci・Dzień Dziadka | 21日がおばあちゃんの日で22日がおじいちゃんの日 |
| 移動祝祭日 | 脂の木曜日 | Tłusty Czwartek | 脂っこいものを食べる日。2月中旬、謝肉祭直前の木曜。 |
| 移動祝祭日 | 復活祭 | Wielkanoc | 春の満月後の最初の日曜日と翌日の月曜日。キリストの復活を祝う日。クリスマスと並ぶ大きな祭日。2007年は4月8日と9日。(休) |
| 5月1日 | メーデー | Święto Pracy | (休) |
| 5月3日 | 「5月3日憲法」記念日 | Rocznica Konstytucji 3 maja | 1791年に制定された憲法を記念する日。 ※ヨーロッパで初めての憲法 (休) |
| 5月26日 | 母の日 | Dzień Matki | |
| 移動祝祭日 | 聖霊降臨の祝日 | Zielone Świątki | 復活祭後の7回目の日曜日。聖霊が使徒たちの上に下ったことを記念。2007年は5月27日 (休) |
| 6月1日 | 子供の日 | Dzień Dziecka | |
| 移動祝祭日 | 聖体の祝日 | Boże Ciało | 聖霊降臨節の10日後の木曜日。最後の晩餐を記念する。2009年は6月11日(休) |
| 6月23日 | 父の日 | Dzień Ojca | |
| 8月15日 | 聖母被昇天の祝日 | Wniebowzięcie Najświętszej Marii Panny | チェンストホーヴァ(Częstochowa)にあるヤスナ・グラ寺院(Jasna Góra)へ、ポーランド各地から大規模な巡礼が行われる。(休) |
| 11月1日 | 諸聖人の日 | Wszystkich Świętych | 諸聖人を祭る日。墓地で家族や親類の墓にろうそくを置く。(日本で言うお盆) (休) |
| 11月2日 | 死者の日 | Zaduszki | 祖先の霊を供養する日 |
| 11月11日 | 独立記念日 | Narodowe Święto Niepodległości | ロシアとドイツ,オーストリアからの独立を記念する日。(休) |
| 12月6日 | サンタクロースの日 | Mikołajki | Mikołaj(Nicolaus=サンタクロース)の日とされ、子供たちにプレゼントが与えられる。 |
| 12月24日 | キリスト降誕祭前夜(クリスマス・イヴ) | Wigilia Bożego Narodzenia | 教会でミサを行う。基本的に日本のクリスマス・イヴとは違い家族で過ごす。(日本のお正月のような雰囲気)この日は肉を食べてはいけないというならわしがあり、伝統的に鯉を食べる。 |
| 12月25日~12月26日 | キリスト降誕祭(クリスマス) | Boże Narodzenie | クリスマスの日。親戚や家族で集まる。 (休) |
| 12月31日 | シルヴェスターの夜 | Sylwester | 大晦日にあたるが、日本のものとは異なる。家族や親戚、友人でパーティーを催したり、夜中の12時に花火を飛ばしたりする。 |
※(休)は休日
[編集] スポーツ
詳細は「ポーランドのスポーツ」を参照
多くのヨーロッパ諸国同様サッカーの人気が高く、2012年にはウクライナと共催でUEFA欧州選手権2012が開催されることになっているが、最も人気のある競技はバレーボールである。
その他、ボクシング、陸上競技、バスケットボール、フェンシング、ハンドボール、アイスホッケー、水泳、バレーボール、重量挙げ、総合格闘技などの競技が人気である。近年は、モータースポーツに対する人気も上がっている。
[編集] 日本の武道
日本の合気道、柔道、剣道も人気があって競技人口が多く、ポーランドの街角では道場の広告を頻繁に見かける。ポーランドの特徴として、特に合気道の人気が高いことが挙げられる。柔道人気はパウエル・ナツラ(パヴェウ・ナストゥーラ)のような国民的人気の天才柔道家を輩出したため。剣道は戦闘技術というよりは「サムライの哲学」として、他のヨーロッパ諸国と異なり日本の武家社会とよく似た社会(シュラフタ社会)のあったポーランドでは特に人気がある。一方、空手のような打撃系の武道は上に挙げた競技ほど頻繁には見かけないが、一定の競技人口は常に獲得しており熱心な競技者がいる。相撲人気は全国的にいまひとつであるが、女子の相撲では熱心な競技者がいる。弓道やスポーツチャンバラはポーランドではまだあまり知られていない。
[編集] 著名なポーランド人
詳細は「ポーランド人の一覧」を参照
以下の人々はそれぞれの分野で世界的に知られている。
- ミコワイ・コペルニク(ラテン語名ニコラウス・コペルニクス) 【天文学者】
- ヤン・ヘヴェリウシュ(ラテン語名ヨハネス・ヘヴェリウス) 【天文学者】
- ステファン・バナッハ 【数学者】
- アルフレッド・タルスキ 【数学者】
- マリア・スクウォドフスカ=キュリー(マリ・キュリー・通称キュリー夫人) 【物理学者・化学者】
- カジミェシュ・フンク(英語名カシミール・フンク) 【生化学者・ビタミンの発見者】
- ヤン・マテイコ 【画家】
- ズジスワフ・ベクシンスキー 【画家】
- タデウシュ・コシチュシュコ(コシューシコ)【軍人】
- アダム・ミツキィェヴィッチ 【詩人】
- フレデリック=フランソワ・ショパン 【作曲家・ピアニスト】
- テクラ・バダジェフスカ 【作曲家・ピアニスト】
- イグナツィ・パデレフスキ 【ピアニスト・政治家】
- カロル・シマノフスキ 【作曲家】
- ルドヴィコ・ザメンホフ 【眼科医・言語学者-エスペラント創案者】
- ルジャ・ルクセンブルク(ローザ・ルクセンブルク)【社会主義者】
- ヤヌシュ・コルチャック(通称コルチャック先生) 【小児科医、孤児院院長、児童文学作家】
- マキシミリアノ・コルベ(コルベ神父) 【カトリック聖職者・アウシュビッツの聖者】
- ゼノン・ジェブロフスキ(日本語名ゼノ・ゼブロフスキー、通称「ゼノ修道士」または「ゼノ神父」)【修道士・慈善活動家】
- ヨハネ・パウロ2世(ポーランド名カロル・ユゼフ・ヴォイティワ) 【カトリック聖職者・第264代ローマ教皇】
- クシシュトフ・キェシロフスキ 【映画監督】
- ロマン・ポランスキ(ロマン・ポランスキー) 【映画監督】
- アンジェイ・ヴァイダ(アンジェイ・ワイダ) 【映画監督】
- ジョセフ・コンラッド(ポーランド名テオドル・ユゼフ・コンラト・コジェニョフスキ) 【作家(英国文学)】
- ヘンリク・シェンキェヴィチ 【小説家】
- スタニスワフ・レム 【SF小説家】
- レフ・カチンスキ【政治家・元大統領】
- レフ・ヴァウェンサ(レフ・ワレサ)【政治家・元大統領】
- ヴォイチェフ・ヤルゼルスキ【軍人・共産党元第一書記・元大統領】
- バーシャ・チェチェレフスカ【シンガー】
- ズビグニェフ・ボニエク 【サッカー選手】
- ロベルト・クビツァ(ロバート・クビサ) 【F1ドライバー】
- アダム・マリシュ 【スキージャンプ選手】
[編集] 参考文献
[編集] 出典
- ^ a b c d IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1])
- ^ http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h12/jog142.html
- ^ [2]
- ^ http://www.polishmarket.com.pl/document/:19269?p=%2FMONITOR+GOSPODARCZY%2F
- ^ http://english.peopledaily.com.cn/90001/90777/90853/6945353.html
- ^ http://www.polishmarket.com.pl/document/:23133?p=%2Flate%2F
- ^ http://ecer.fr/resultat.html
- ^ http://www.airfrance.fr/US/en/local/guidevoyageur/destination/guidevoyage_pl.htm
- ^ http://www.pps.org/squares/info/squares_articles/international_squares
- ^ 渡違克義 「ポーランド固有名詞学序説」
- ^ Paul Murray, "The Fourth Friend: Poetry in a Time of Affliction," Logos: A Journal of Catholic Thought and Culture, vol. 8, no. 3 (Summer 2005), pp. 19-39.
- ^ http://www.guardian.co.uk/world/2010/mar/02/ryszard-kapuscinski-accused-fiction-biography
- ^ http://www.herald.ie/lifestyle/sorting-fact-from-fiction-2091128.html
- ^ (ドイツ語) F.A.Z. (corporate author) (2007-01-24). “Ein Herodot für unsere Zeit”. Frankfurter Allgemeine Zeitung 2007年1月25日 閲覧。
- ^ http://www.cichonski.art.pl/eng/record.htm ジミ・フェスティバル
- ^ http://www.festiwalopole.com/ オポーレ国民音楽祭(ポーランド語)
- ^ http://kultura.wp.pl/title,Sopot-Wagner-Festival,wid,11293797,wiadomosc.html ソポト・ワーグナー音楽祭(ポーランド語)
[編集] 関連項目
- ポーランド関係記事の一覧
- ポーランド君主一覧
- ポーランドの大統領一覧
- ポーランドの都市の一覧
- ポーランドの観光地
- ポーランド・リトアニア共和国
- ワルシャワ公国
- フス戦争
- 黒い聖母
- ピウスツキ
- 独立自主管理労働組合「連帯」
- ポーランド統一労働者党(PRL)
- カティンの森事件
- 梅田芳穂- 民主化に活躍した日本人
- ポーランド記法
- 逆ポーランド記法
[編集] 外部リンク
- 政府
- ポーランド共和国政府 (ポーランド語)(英語)
- ポーランド大統領府 (ポーランド語)(英語)
- ポーランド首相府 (ポーランド語)(英語)
- 在日ポーランド大使館 (日本語)
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- その他
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